第三話第一章
出会いは一瞬、一緒は数年
石清水華飂が大学に入学して半年が過ぎた頃、キャンパスの空気は夏の熱気を失い、澄んだ風に包まれていた。講義棟のガラス窓には午後の光が差し込み、静かなざわめきの中、教授の声だけが響いている。
華飂は黒板に書かれる数式を淡々とノートへ写していた。無駄口は叩かない。周囲の学生たちが小声で囁き合うのも耳に入らない。必要なことだけを頭に刻み込み、講義が終われば速やかに席を立つ。それが彼女の日常だった。
その背後から、明るい声が飛んできた。
「ねえ、石清水さんだよね?」
振り返ると、背の高い女性が汗ばんだ額をタオルで拭きながら立っていた。短めに結んだ髪、日に焼けた健康的な肌。キャンパスでよく名前を耳にする、女子バスケットボール部の主将・リアだった。
「……はい。石清水華飂です。」
「やっぱり!同じ学部なのに今まで話したことなかったよね。私は登戸リア、二年でバスケ部のキャプテンやってるの。」
屈託のない笑顔に、華飂は一瞬返答を迷った。自分とは正反対の明るさ。けれど、なぜか嫌悪感よりも興味が勝っていた。
講義後、リアは当然のように隣に歩き、カフェテリアへと誘った。昼休みの食堂は賑やかで、皿の音や笑い声が入り混じる。
「石清水さんは何頼むの?」
「……パンと紅茶で十分です。」
「えー、少なっ!運動しないといっても、それじゃ午後までもたないよ?」
心配そうにのぞき込むリアに、華飂は曖昧に頷くしかなかった。自分の生活リズムを気にかけてくれる人など、今までほとんどいなかったからだ。
図書館の午後。窓から差し込む光が机に広がり、紙の上に白い四角を作っていた。リアは分厚い英文のプリントに顔を埋め、鉛筆をくるくると回している。
「この単語、さっき調べたのに、また忘れちゃった……」
「“bewildering”。“まごつかせるような”とか、“混乱させるほど多様な”って意味です。」
「そうそう、それそれ!」
リアはすぐにノートに書き込み、満足そうに笑った。
「華飂がいなかったら、私ぜんぜん課題終わらないよ。ほんと、助けられてばっかり。」
「……努力は、していると思いますけど。」
「え、褒めてる? それ、褒めてるよね?」にやりと覗き込まれ、華飂は視線をそらす。机の下で足先を揺らしながら、言葉を飲み込んだ。
図書館は静かだった。ページをめくる音と鉛筆の走る音が響く中で、二人だけの空気が流れているように感じられた。リアがふとノートの隅に小さなカボチャの落書きを描いたのを見て、華飂は小さく笑った。
「なに?笑った?」
「……似てます、かぼちゃの形。」
「ほんと!? じゃあ、ハロウィンのとき、これを実際に作ろうかな。」
そんな他愛ないやりとりが、華飂には居心地よかった。
そして迎えた文化祭。昼間から人の波は途切れず、屋台の列はどこも長かった。焼きそばのソース、綿菓子の甘さ、かぼちゃスープの香り――あらゆる匂いが混ざり合い、夜の始まりを告げるように熱気を帯びていた。
バスケ部のステージは盛況で、リアは魔女の仮装をしてボールを自在に操り、観客を沸かせた。ライトを浴びた彼女の姿に、華飂は言葉を失う。華やかで、誰よりも輝いていた。
公演後、リアは汗を拭いながら笑顔で駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「……魔法みたいでした。」
「ふふっ、うまいこと言うね。」
その後、リアは少し顔を赤くしながら言った。「ねえ、このあと……一緒にお化け屋敷、行かない?」
唐突な誘いに、華飂は瞬きをした。人混みのざわめきの中、リアの声だけがはっきり届いた。
お化け屋敷の入り口は暗幕に覆われ、橙色の灯りが不気味に揺れている。中に入るとすぐ、ひんやりとした空気に包まれた。
「うわ、思ったより本格的……」
リアは早速、華飂の袖をぎゅっと掴んだ。
「……怖いんですか?」
「こ、怖くないし!ただ雰囲気がね!」
暗闇の中、突如響いた悲鳴にリアが跳ねる。思わず華飂の腕に抱きついた。華飂は心臓の鼓動を抑えようとしながら、前を見据える。
「……大丈夫です。手、離さないで。」
「うん……」
ランタンの明かりに照らされる一瞬、リアの横顔が見えた。普段は強気で笑顔を絶やさない彼女が、今は不安げに唇をかみしめている。華飂の胸が不意に熱くなった。
出口が近づいた頃、リアは深呼吸をして足を止めた。
「ねえ、華飂……ちょっと、聞いてほしいことがあるの。」
華飂は振り返る。暗闇の中、リアの瞳が真剣に揺れていた。
「最初に会ったときから、なんか気になってた。静かで、何考えてるか分からないのに、一緒にいると安心するんだ。……私、多分、ずっと華飂が好きだったんだと思う。」
声は震えていたが、必死さが伝わった。お化け屋敷の効果音が遠くに霞んでいく。
華飂は少しの間、言葉を探した。
「……私も、リアといると……落ち着きます。」
不器用な答えだった。けれどリアは大きく目を見開き、次の瞬間、破顔した。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう!」
出口の幕を抜けたとき、夜の冷たい空気が二人を包んだ。リアはまだ華飂の腕に触れたまま、笑顔を浮かべていた。
かぼちゃランタンの灯が揺れる中、華飂はそっと息を吐いた。
――この夜を、きっと忘れない。