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第二話第三章

 慌てて上着を引き寄せ、半ば反射的に胸元を覆った。薄暗い部屋。

 カーテンの隙間から差し込む月の光が、露わになった私の肩をかすめる。お姉ちゃんの視線がそこに突き刺さった。


 「……匂いがする。女の匂いか?」


 鋭く細められた瞳。銀色のピアスが、わずかな揺れで光を散らす。その右手は、癖のように爪を噛み、何かを噛み殺すように動いていた。


「まさか、喧嘩したわけじゃねえだろうな?」


 声は低く押し殺されているのに、背筋にぞわりと走る圧力を帯びていた。


 「そんなお姉ちゃんじゃないんだから、喧嘩なんてしないよ。」そう答えながらも、私は思わず半歩後ずさった。

 

 床板が小さく軋む。その音を追い詰めるように、お姉ちゃん――殻音が一歩近づき、私の首筋に鼻先を近づけてくる。その吐息が、やけに熱く感じられた。


 「じゃあ何の匂いがするんだよ。誰の香水だ!」怒鳴るでもなく、けれど震える声。冷酷な番長の顔しか知らない人間なら、到底想像できないような焦りが、その言葉に滲んでいた。


 殻音はさらに私を見据える。

 「甘い匂いだな……女子のやつだろ? 誰だよ? お前が好きになった女か?」


 震え始めた手、揺れる瞳――怒りではない、別の何かに揺さぶられているようだった。そして、わずかに喉を鳴らして呟いた。


 「……お姉ちゃんを、置いていかないでくれよ。」

 

 私は息を呑んだ。殻音の声が、かすれた。あの人がこんな風に縋るのを、私は一度も見たことがない。胸の奥に、言いようのない重さが沈んでいく。


 ――平井さんのこと、打ち明けるべきか。それとも隠すべきか。


 口を開いた瞬間、私の唇は無意識に嘘を選んでいた。


 「……勇兒。お前にとって、私はそんなに嫌いな姉なのか?」


 殻音の瞳が潤み、涙がひとしずく、頬を伝った。彼女は慌てて顔を背け、爪で自分の頬を乱暴に抓る。その仕草は痛みで感情を押し殺そうとしているみたいだった。


 「……ぁあ。また泣いちゃった。バカだな、俺は。」かすかな笑みとも諦めともつかない声。

 彼女は私の肩から手を放すと、部屋の隅に置かれたパジャマを握りしめる。その指先が白くなるほど強く。


 「好きになった女がいるなら、別に構わない。でも……せめて、お姉ちゃんにだけは教えてくれよ。」その背中が小刻みに震えていた。


 「……今日、平井さんに告白されて。OKしたんだ。」言葉が部屋の空気を裂いた。殻音の体が硬直する。指先は無意識に爪を噛み続けていた。


 「……平井? あの眼鏡の女か。なんで……あいつに?」振り返った顔には、疑念と傷ついた色が入り混じっている。


 「お前……本当にお姉ちゃんのこと嫌いになったのか? だから他の女に……」最後まで言い切る前に、涙が零れた。彼女は窓辺へ駆け寄り、外を見たまま、声を押し殺す。


 「……いいよ。好きにしてろ。

 

 でも……約束しろよ。

 

 幸せになれよ。」

 その声は震え、けれど必死に私から目を逸らしていた。


 私は慌てて言葉を繕う。


 「お姉ちゃんのことは嫌いになんかならないよ。ただ……お姉ちゃんは、私に彼女ができたら嫌なの?」


 殻音は窓の段差に腰を下ろし、振り返った。月明かりが彼女の頬を照らし、陰影を深くする。

 「嫌じゃない……ただ……」


 そこで言葉が途切れ、指でピアスをいじりながら膝を抱えた。


 「お前が他の女と……幸せになる姿を、見たくないだけだよ。馬鹿みたいだよな。」


 殻音は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ると、ようやくシャツを着終えた私の胸元に顔を埋めた。


 「でも、お姉ちゃんはお前の幸せを一番願ってる。勇兒……ちゃんと幸せにしてこいよ。絶対に泣かせんなよ。」そして、顔を離すと、かすれた声で続けた。


 「それと、約束して……お姉ちゃんのこと、忘れちゃだめよ?」そう言い残して自室へ戻っていった殻音の背中が、月明かりの中でひどく小さく見えた。

 

 私は、明日からどうなるのか、まったく見当もつかなかった。


 翌朝


 朝の光はやわらかく差し込んでいた。廊下を歩く足音が響き、キッチンからは湯気と味噌汁の匂いが漂ってくる。いつも通りの朝――のはずなのに、私の胸の奥はまだ昨夜の余韻にざわめいていた。


 殻音と並んで登校する。通学路の空気はひんやりとして、吐く息が白くなる。何事もなかったかのように歩く殻音の横顔は、少しだけ硬い。


 昼休み、廊下の端で平井さんと他愛ない話をしていた。


 「今度の小テスト、範囲広すぎない?」


 「ね、先生やる気ありすぎ」――そんな取りとめのない会話。


 彼女は笑ったときに目尻が少しだけ下がる癖があって、その柔らかい雰囲気に、つい時間を忘れてしまう。そのとき、背筋にひやりとした感覚が走った。


 振り返ると、廊下の向こうからお姉ちゃんがゆっくり歩いてくる。笑っているわけでも、怒鳴っているわけでもない。ただ、真っ直ぐらを見据え、その瞳だけが異様に鋭く光っていた。

 

 ――――――その日の放課後――――――


 昇降口を出たところで、殻音がふいに歩みを止めた。

 「勇兒、昼休みもずっとあの女と話してたけど……」言い終えると同時に、彼女は平井さんと私の間に割り込み、じっと平井さんを睨みつける。


 「姉さん、ちょっと……」


 「ちょっとじゃないだろ? あんな女より、姉ちゃんのこと大切にしろよ。」殻音は私の襟を掴み、顔をぐっと近づける。その瞳は、静かに煮えたぎるような熱を帯びていた。


 「お前のこと……誰にも渡さないからな。」平井さんが小さく息を呑み、後ずさる。

 

 私は慌てて言う。「平井さんが怖がってるじゃないか。」殻音は一瞬だけ顔を歪め、まるで牙を剥くように平井さんを睨む。けれど私の言葉に、深く息を吐き出した。視線を外すと、廊下の端へ行き、背中を丸めてしゃがみ込む。


 「……ごめん。」


 その小さな声に、私は平井さんを連れて駆け寄った。


 「お前のこと守りたくて……他の女が嫌で……」殻音の声は震えている。普段の強気な彼女からは想像もできない弱さだった。立ち上がった彼女は、平井さんにも視線を向ける。


 「平井さんも、怖がらせてごめん。」その後、制服のボタンを指でいじる癖が出る。少しだけ肩の力が抜けた気がした私は、平井さんに向き直る。


「でも、お前たちの関係を認めたわけじゃないからな。その…まだ…」殻音は言葉を濁し、照れ隠しのように目を逸らす。平井さんも安堵したように微笑み、三人で帰ることになった。


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