第二話第二章
――――――喧嘩をしないで1週間後――――――
「なあ、頼むよ。できないわけじゃないだろう?」
お姉ちゃんの同級生らしい、不良の先輩が必死な顔で頭を下げてきた。どうやら彼女にしかできない“仕事”があるらしい。私はその頼みを引き受けることにした。
「不良の仲間にも、お姉ちゃんに惹かれて不良になったやつ、多いんだよな。」彼女は普段は強気で気が強いけど、どこか憎めない魅力があって、男子のハートをつかんでいるらしい。まさかファンクラブまでできているなんて、信じられなかった。
午後、私はお姉ちゃんがバイトしているメイド喫茶に潜入。彼女は普段着慣れていないメイド服を身にまとい、可愛らしく笑顔で接客していた。
私は別のメイドさんに席に案内され、緊張しながらも注文した。すると、まるで約束していたかのようにお姉ちゃんが私のもとへやってきた。
「いらっしゃいませ、ご主人さま。」彼女の声は普段より少し震えていて、頬は赤く染まっていた。まるで子供みたいに爪を噛む癖も出ている。
「じゃあ、この魔法の水とレーズンケーキをお願い。」
「勇兒、何考えてんのよ!シフト中に来るなって言ったでしょ!」恥ずかしそうにしながらも、怒りの混じった声がこぼれた。
店内の空気が一変し、ガラス越しにファンクラブの連中がカメラを構えてざわつき始める。彼女は深いため息をつき、声を潜めて言った。
「今は普通に接客するから……」私がからかうように促すと、突然彼女は私の手を取り、自分の胸元にそっと押し当てた。制服越しに伝わる温もりに私は驚き、心臓が跳ねた。
「これでおまじない代わりだ。」その瞬間、店の入口からファンクラブの連中が押し寄せてきた。彼女は私の手を離し、他のメイドたちと一緒に笑顔を作るが、その笑顔にはどこか無理をしているような影があった。
「いらっしゃいませ!ご注文は何にいたしますか?」ケーキを食べ終えた私は、そろそろ店を出ようと立ち上がった。外ではファンクラブの連中がまだカメラを構えている。
「ふざけんなよ……」お姉ちゃんの目が鋭く光り、彼らを睨みつける。
「この店のルールは、客同士のトラブルは許さない。迷惑をかけるなら今すぐ出ていけ。」周囲の客も息を呑む中、彼女は強い口調で告げた。
「二度とここに来るな。次は容赦しないからな。」私が彼女を止めようとした瞬間、店長らしき人物が現れ、彼女を厨房の奥へ連れていった。私はこの騒動がどうなるか、複雑な気持ちで見守った。
数分後、彼女は戻ってきたが、どこか寂しそうな表情だった。
「ごめんね、勇兒。」彼女は拳を強く握りしめながら、私の頭を乱暴に撫でてそう呟いた。
「シフトが終わるまで、ここで待っててくれないか?」彼女の声はかすかに震えていた。私はただ静かに頷いた。
彼女は距離をとり、また笑顔で接客に戻っていった。
シフト終了後、着替えを終えた彼女は少し照れくさそうに私を見た。
「……待たせたな。」
視線をそらしながら呟く。ポケットから出た手が無意識に爪を噛んでいる。
「もう少し、一緒にいてくれよ。」私たちは並んでバス停まで歩いた。
私は、帰り道のバスに揺られながら、今日の出来事を反芻していた。
「あのメイド服姿を勇兒に見られるなんて思ってもみなかった。しかもあんな形でファンクラブの連中に囲まれるなんて、最悪だ。…いや、最悪なんだけど、それだけじゃない。」
(あいつが店に現れたとき、心臓が変に高鳴って、うまく呼吸ができなくなった。普段なら冗談を言い合って終わるはずなのに、今日はどうにも意識してしまった。制服越しに手を握られた感覚も、まだ指先に残っている。)
お姉ちゃんがなにか考えているように見えた。バスの窓から見える街灯が、揺れるたびに彼の横顔を照らした。勇兒は何も言わず、ただ静かに外を見ている。その横顔が妙に大人びて見えて、殻音は目を逸らした。
家の最寄りの停留所で降りると、夜風が髪を揺らした。「今日は色々悪かったな」勇兒がぼそっと呟く。私は答えに詰まり、結局「別に」とだけ返した。
でも本当は、あの場に来てくれたこと、そして最後まで隣にいてくれたことが、嬉しくて仕方なかった。ただ、その気持ちを素直に口にするのは、今はまだ恥ずかしすぎる。
だから私は、玄関のドアを開ける直前、ほんの小さく囁いた。「…ありがと」
夜の静けさに紛れるくらいの声で。
私はこれからもお姉ちゃんの世話を見なければならないと感じてしまった。
――――――――――――――――――――
今日は、たぶん人生で忘れられない日になる。
いや、もうなっている。なぜなら――人生で初めて、ラブレターをもらったからだ。
相手は、同じクラスの平井楠見さん。
髪は腰まで届きそうなほど長く、いつも高い位置で結んだポニーテールが軽やかに揺れる。話せばよく笑うけれど、勉強も運動もそつなくこなすタイプで、私にとっては「よく知っているけど、特別意識したことはない」そんな存在……のはずだった。
放課後、いつものように姉に捕まりかけたが、ラブレターに書かれていた「今日、放課後、図書室に来てほしい。直接告白したい。」という一文を思い出す。心臓の鼓動は妙に速く、息まで短くなる。何かを誤魔化すように「今日はちょっと用事ある!」と告げ、半ば逃げるように家とは逆方向へと駆け出した。
図書室のドアをそっと開けると――そこにいた。
窓際の席で「傲慢と善良」を開き、ページをめくる細い指先。柔らかく差し込む夕日が、横顔を淡く照らしていた。
(あれ……こんなに可愛かったっけ?)っと思わず息を呑んだ。
私に気づいた彼女は、ぱっと顔を上げ、少し照れくさそうに笑う。
「来てくれたんだ」声は小さく、それでいて真っ直ぐ届く。私はただ頷くだけで精一杯だった。
「手紙にも書いたけど……私、君のこと好きなんだ」頬がほんのり染まり、瞳がこちらをまっすぐ射抜く。
「もしよかったら……私と付き合ってください!」
頭が真っ白になった。こういうとき、ドラマの主人公なら何と言うのだろう。無難に「お願いします」? それとも軽く「いいよ」?
迷った挙句、口から出たのは、ぎこちない言葉だった。
「喜んで……OK、します」
その瞬間、彼女の顔がぱっと花開いたように輝く。ほんの少しだけ距離が近くなり、机越しに彼女の指先が私の手に触れる。
――甘い匂いがふっと鼻をかすめた。
なんだろう、シャンプー? それとも香水?
ただ、確かに“女の子”の匂いだった。
告白のあとは、互いに笑いながら取り留めのない話をした。ほんの少しふざけて、肩が触れたり、顔が近づいたり。時間が過ぎるのは一瞬で、気づけば夕焼けが群青色に溶け始めていた。
帰り道、ふとその香りをまた感じる。
――あ。まずいな。
シャツに、平井さんの匂いがしっかり残っている。
頭の中で警鐘が鳴り響く。お姉ちゃんにこれがバレたら……絶対面倒なことになる。
「……ケンカの後の緊張感って、たぶんこんな感じなんだろうな」
家にたどり着く前から、言い訳を必死に探した。
――図書室で柔軟剤の匂いが漂ってたとか?
――隣の席の女子とノートを見せ合っただけだとか?
……いや、無理だ。あの嗅覚は野生動物レベルだ。
玄関を抜けるとき、家族の気配をうかがい、そっと自室のある二階へ行こうとするがどうやって行こう。
「とりあえず……匂いが取れるまで服は脱ぐか」
上半身裸になり、ベランダの窓から忍び込む。クローゼットから適当な部屋着を引っ張り出し、急いで着替えようとしたそのとき――。
廊下から、ドン、ドン、と早足の足音が近づいてくる。
ドアが勢いよく開かれた。
「勇兒! どこ行ってたんだよ!」
姉の声が、部屋いっぱいに響き渡った。
裸の上半身と、手に持ったままのシャツ。
――この状況を、どう説明すればいい?