第十話最終章
――――――校長室の扉の前――――――
校長室の前に立つと、志水の手に汗がにじんでいた。
「……本当に大丈夫かな」
「大丈夫! あれだけ練習したんだから。ね?」
四宮は不安を打ち消すように笑顔を見せるが、その声はわずかに震えている。
春原先生が軽く扉をノックする。
「失礼します、校長先生。調理部設立の件で、少しお時間いただけますか」
中から落ち着いた女性の声が響く。
「どうぞ」
扉が開かれると、校長室特有の少し重厚な雰囲気が三人を包んだ。机の向こうに座っていたのは、五十代ほどの女性校長・藤堂先生だった。柔らかな眼差しを持ちながらも、凛とした雰囲気をまとっている。
「まあ……あなたたちが例の生徒さんね。」藤堂校長は眼鏡を外し、二人を見やった。
志水と四宮はそろって一礼する。
「二年の志水です」
「同じく二年の四宮です!」
「今日は……」
志水が言いかけたとき、四宮がすぐに続いた。
「私たち、どうしても調理部を作りたくて! でも人数とか先生の都合で難しいって言われて……それで、春原先生に“校長先生にお菓子を食べてもらったら”って提案をいただいたんです。」
藤堂校長は小さく頷き、椅子から身を乗り出した。「つまり、味で私を納得させようというわけね」
その言葉に、四宮は思わず「はいっ」と声を張り上げてしまった。志水も少しうなずき、布を外してタルトタタンを校長の机に置いた。
ふわりと甘いリンゴとバター、キャラメルの香りが漂う。
校長の眉がわずかに上がった。
「……見た目は十分に美しいわね。香りも食欲をそそる」
藤堂校長はナイフを手に取り、一切れを静かに切り分けた。果肉はほどよく柔らかく、キャラメリゼはナイフの先に軽く抵抗を残す。皿に移す動作すら、三人の心臓を跳ねさせるほどの緊張感があった。
フォークでひと口をすくい、校長は静かに口へ運んだ。甘酸っぱいリンゴとほろ苦いキャラメル、そして香ばしい生地の風味が広がっていく。
校長は数秒目を閉じ、ゆっくりと咀嚼した。
四宮の両手はぎゅっと握られ、志水は呼吸を浅くしてその様子を見つめていた。
そして――校長は目を開け、口角を少し上げた。
「……驚いたわ。本当に、よくできている。甘さと苦味のバランス、リンゴの食感、キャラメリゼの仕上がり。どれも高校生が作ったとは思えない完成度ね」
「ほ、本当ですかっ!?」四宮が歓喜に跳ねるように声をあげる。志水も、胸の奥から安堵の息がもれた。
「ええ。これは立派な作品だと思うわ」
校長はさらにもう一口を口に運んだ。その度に四宮の頬は紅潮し、志水はじっと黙って見守った。
「ただし」校長の声色が少しだけ厳しくなる。二人は同時に背筋を伸ばした。
「味は確かに素晴らしい。でも、部活動というのは味だけで成り立つものではないの。責任者、活動場所、予算、そして何より仲間。二人だけでは、やはり厳しい部分が多いわ」突きつけられた現実に、四宮の表情が一瞬曇る。志水も唇を噛みしめる。
しかし、藤堂校長は続けた。
「……けれど、この熱意と努力を無視するのは簡単じゃないわね。春原先生」
「はい」春原先生は一歩前に出た。
「彼らは本当に真剣です。毎日のように試作を重ね、ここまでの味に仕上げました。その姿勢を見て、私もサポートしてやりたいと感じました」
校長は二人を見つめ、ふっと微笑んだ。
「わかりました。すぐに部として認めるのは難しい。でも、“同好会”として活動を始めることは可能です。人数が集まり、実績を積めば正式な部活動への昇格も考えましょう」
「同好会……!」四宮の瞳が輝きを取り戻す。志水も小さく頷き、心の底から安堵が広がるのを感じた。
校長室を後にすると、三人は並んで廊下を歩いた。
四宮はスキップしそうな勢いで笑っている。
「やったね、志水くん! これで“調理同好会”だよ!」
「……ああ。正直、胸が潰れそうだったけど、良かった」
「ふふ、私なんて手が震えっぱなしだったよ!」
隣で春原先生が肩をすくめる。「でも、まだスタート地点に立っただけよ。これからもっと頑張らないといけないわね」
「はい!」二人の声が重なった。甘い香りがまだ鼻の奥に残っているような感覚のまま、二人の心は確かな希望で満ちていた。
調理同好会としての活動が始まった翌週、放課後の家庭科室には普段とは違うざわめきが満ちていた。
机の上には志水が焼いたパウンドケーキと、四宮が仕上げたクッキーが並んでいる。どちらも香り高く、出来栄えは十分だった。
「ほら、味見してごらんなさい」
藤堂校長が、数人の女子生徒を連れてやってきたのだ。
「彼らの同好会を応援するために、まずはあなたたちに試食をお願いしようと思ってね」連れられてきた三、四人の女子生徒は目を輝かせながら机を覗き込んだ。
「わあ、いい匂い!」
「これ、志水くんが作ったの? すごーい!」
彼女たちは遠慮なくケーキを一口ほおばり、すぐに歓声を上げた。
「おいしい! しっとりしてる!」
「こんなに上手に作れるなんて、ほんとに男子なの?」
四宮の胸がちくりと痛んだ。自分のクッキーも口にしてもらえたが、反応は志水のパウンドケーキに比べると少し控えめに感じられる。
何より、女子たちが志水の周りに集まり、笑顔で声をかけている光景に、心の奥がざわついた。
「……あ、ありがとう。そんなに大したものじゃないんだけど」志水は耳まで赤くして、女子たちの視線から逃げるように笑った。
「また作ってよ!」
「次は何作るの? 楽しみにしてるからね」
無邪気な言葉が矢のように飛んでくる。
志水は困ったように曖昧に頷いていたが、その姿を見つめる四宮の胸はざわめき続けた。
(……私だって、お菓子作り好きなのに。志水くんと一緒に作るのが楽しいのに)
笑顔を見せているはずなのに、心の奥では言葉にならない不安が膨らんでいく。
試食会が終わり、女子たちが満足げに帰っていったあと、家庭科室には二人だけが残った。
机の上にはまだ甘い香りが残り、外の夕暮れが窓から差し込んでいる。
志水は片付けを始めながら、ふっと息をついた。
「……なんだか、すごかったな。正直、あんなに褒められるとは思ってなかった」
「そうだね」
四宮は笑顔を作ったが、その声には力がなかった。志水が怪訝そうに彼女を見やる。
「四宮、どうかした?」
その問いに、四宮は胸の奥にため込んだ言葉が堰を切ったように溢れてきた。
「……ねえ、志水くん」四宮は箒を握ったまま、勇気を振り絞って彼を見つめた。
「私、さっき……ちょっと嫉妬しちゃった」
「え?」志水の手が止まる。
「みんなが志水くんに“すごい”って集まってて……なんだか、胸が苦しくなったの。私ね……志水くんと一緒にお菓子を作るのが一番楽しいの。他の誰でもなく、志水くんと一緒だから頑張れるの」
声が震え、頬が赤く染まる。
「……私、志水くんのことが好き。これからもずっと、一緒にお菓子作っていきたい。やっぱり二人一緒が良いの。」
静かな家庭科室に、その言葉が落ちた。
志水は目を見開き、しばし動けなかった。
やがて、彼はゆっくりと息を吐き、照れくさそうに笑った。
「……四宮は、本当にまっすぐだな」
その言葉に四宮の心臓は跳ね上がる。
「私も……一緒にいると楽しいよ。だから、これからも一緒に作ろう。お菓子作り。」
返事は曖昧なようで、しかし十分だった。四宮の胸に温かい喜びが広がる。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと夜に溶けていく。
二人は片付けを続けながら、ときおり視線を交わし、微笑み合った。
調理同好会はまだ始まったばかりだ。
けれど、その中心にある絆は、確かに強まっていた。
甘い香りとともに、新しい関係の始まりを予感させる放課後だった。




