第十話第五章
夕方の家庭科室。窓から差し込む西日が、磨かれた調理台をオレンジ色に染めていた。志水と四宮は並んで立ち、調理器具が並ぶ棚を眺めていた。
「さて……どんなお菓子を作ろうか」志水の問いに、四宮は腕を組んで唸る。
「校長先生を唸らせるなら、簡単なのはダメだよね。クッキーやマフィンじゃ、家庭科の授業でも作れるし」
「そうだな。せっかくなら難しいものに挑戦した方がいい」
しばしの沈黙のあと、四宮の瞳がきらりと輝いた。
「……タルトタタン、作ってみない?」
「タルトタタン?」志水は少し考え、首を傾げた。
「逆さに焼くリンゴのタルトだよね。リンゴをキャラメルで煮てからタルト生地をのせて、ひっくり返すやつ。」
「そう!あれ、すごく繊細で難しいんだよ。キャラメルを焦がしすぎてもダメ、煮たりんごの柔らかさも大事。しかも最後に形を崩さずに返さなきゃいけない。……でも、成功したら絶対にインパクトがあると思うの。」
志水はその熱意に押されるように口元をほころばせた。
「確かに難易度は高いけど、挑戦しがいがありそうだな」
「でしょ? 志水くんとなら、きっとできる!」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。こうして校長への勝負菓子は――タルトタタンに決まった。
休日、四宮の家の広いキッチンで、二人は最初の挑戦に取りかかった。リンゴは紅玉。酸味が強く、焼き菓子に適している。
四宮は皮をむきながら説明する。
「紅玉は小ぶりだけど、香りと酸味が強いからタルトタタンにはぴったりなんだって」
「なるほど。甘いキャラメルとのバランスか」
志水はリンゴを均等な厚さに切りそろえ、四宮は鍋に砂糖を入れて火にかける。
「……キャラメルって、焦げるの早いんだよね」
「私が見てるから大丈夫だ」
砂糖は溶け、次第に黄金色に変わる。甘く香ばしい匂いが漂い、二人は思わず顔を見合わせた。
「いい匂い……」
「でも、まだ色が浅い。もう少しだけ」
しかし次の瞬間、キャラメルはあっという間に濃い茶色に変化し、煙が立ち上がる。
「あっ、焦げちゃった!」
「急すぎるだろ……!」
慌てて火を止めたが、鍋の底には苦い匂いの焦げ付きが広がっていた。試しにリンゴを入れて煮たものの、口にした途端、四宮が眉をひそめた。
「……うぅ、苦い」
「これは校長先生に出したら逆効果だな」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
気を取り直して二度目の挑戦。今度は火加減を弱め、慎重にキャラメルを仕上げる。琥珀色になったところで火を止め、リンゴを並べた。
「今度はいい感じだ」
「このままオーブンで焼いて……」
タルト生地を被せ、焼き上げる。甘く濃厚な香りが広がり、二人は期待に胸を躍らせながら取り出した。
「じゃあ、ひっくり返すよ」志水が皿を被せ、深呼吸して一気に返す。
しかし――。
ぐしゃり、と音を立て、リンゴがばらけて崩れ落ちた。キャラメルは流れ出し、皿の上は無残な姿に。
「……ああああ!」
「せっかくうまくいきそうだったのに」
四宮は両手で顔を覆い、志水は肩を落とした。
「形を保つのがこんなに難しいとは」
「リンゴの煮詰め方が足りなかったのかも。水分が多すぎて崩れちゃったんだ」
二人はノートに反省点を書き込み、次の挑戦に備えた。
――――――翌週――――――
四宮はレシピ本を何冊も読み込み、改良点を考えてきていた。
「キャラメルを作るとき、水をほんの少し加えて砂糖を溶かすと均一に仕上がるらしいよ」
「なるほど、それなら焦げにくい」
志水はリンゴの水分を飛ばすため、あらかじめフライパンで軽く焼きつけた。表面に薄い焼き色がつき、香ばしい匂いが漂う。キャラメルは黄金色で止め、そこに焼いたリンゴを丁寧に並べる。タルト生地をかぶせ、オーブンへ。焼き上がった香りは格別だった。バターと砂糖、リンゴの甘酸っぱい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「いくよ」志水が皿を押さえ、一気にひっくり返す。
――ぽん。
皿の上に、崩れずに整った形のタルトタタンが現れた。琥珀色に輝くリンゴの層が美しい。
「やった……!」四宮は思わず声をあげた。
二人で一口ずつ味見する。
「酸味と甘みのバランスがいい」
「キャラメルも苦くないし……おいしい!」
成功の喜びに二人は笑い合ったが、同時にまだ課題も見えてきた。
「もう少しキャラメリゼを強くして、表面をパリッと仕上げたい」
「リンゴの並べ方も工夫しないと、見た目がもう一歩だな」
二人は意見を交わしながら、さらに改良を続けることを決意した。
その後も数日おきに試作を繰り返した。キャラメルの温度計を導入したり、リンゴの切り方を厚めに変えたり、タルト生地にアーモンドクリームを薄く塗って香りを強めたり。
失敗もあった。キャラメルを再び焦がして苦くしてしまったり、リンゴを煮すぎて形がなくなったり。だが、志水が冷静に記録を取り、四宮が新しいアイデアを提案することで、少しずつ完成度は高まっていった。
作業の合間、二人の会話も自然と増えていった。
「志水くんって、料理のときすごく集中するよね」
「四宮もだろ。お菓子の話になると目が輝いてる」
「えっ、そうかな」
「そうだよ。……なんか見てると、私まで楽しくなる」
その言葉に四宮は頬を赤らめ、ツインテールを揺らした。
「じゃあ、もっと一緒に頑張ろうね」
リンゴとキャラメルの香りに包まれながら、二人の距離は確実に縮まっていった。
数度の試作を経て、二人のタルトタタンはついに理想に近づいた。
リンゴは艶やかにキャラメリゼされ、酸味と甘みのバランスが絶妙。タルトはしっかり形を保ち、切っても崩れない。表面はパリッと香ばしく、口に入れるとほろりとほどける。
四宮は皿に盛りつけられたタルトタタンを見つめ、胸を熱くした。
「これなら……校長先生に出してもいいかも」
「ああ。私たちの努力の結晶だ」
二人はスプーンを手に取り、同時にひと口。
「……美味しい」
「最高だな」
視線が合い、自然と笑みがこぼれた。タルトタタンの甘酸っぱさは、どこか二人の気持ちの距離にも似ていた。
――――――土曜日の午後――――――
家庭科室の中には甘く香ばしい香りが漂っていた。焼き立てのタルトタタンがオーブンから出され、天板の上で湯気を上げている。
四宮は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、祈るようにその姿を見つめていた。
「……崩れてない」志水が低くつぶやく。
ひっくり返した瞬間、きれいに並べられたリンゴがつややかな琥珀色をして姿を現したのだ。キャラメリゼも焦げすぎず、むしろ絶妙な色合いだった。
「やった……!」四宮は歓声を上げた。思わず志水の腕に軽く手を置く。志水は少しだけ照れたように、けれども口元を緩ませた。
「これなら、いけるかもしれないな」
二人が顔を見合わせて小さく頷いたとき、家庭科室の扉が開いた。
春原先生が腕時計をちらりと見ながら入ってくる。
「そろそろ時間ね。準備はできた?」
「はい! バッチリです。」四宮は力強く返事をする。
春原先生はタルトタタンを一瞥し、ふっと目を細めた。
「……見事な出来じゃない。何度も練習した甲斐があったわね」
その言葉に、二人の緊張した心が少しだけほぐれる。しかし、これからが本番だった。
――校長先生に食べてもらい、調理部設立の可能性を試す。
そう考えると、胸の奥で緊張が再び膨らんでいく。
「じゃあ、行きましょうか」
春原先生の合図で、二人は完成したタルトタタンを大事そうに木製の台に乗せ、布で覆った。
熱がこもらないように気をつけながら、三人は校長室へと歩き出す。




