第十話第三章
土曜日の午後。志水諒丙は少し緊張しながら、四宮朱華の家の前に立っていた。白い壁にレンガ調のアクセントが施された二階建ての家は、どこか洋風の雰囲気を漂わせている。チャイムを押すと、すぐに扉が開き、ツインテールを揺らした四宮が飛び出してきた。
「志水くん、来てくれた! いらっしゃい!」
「お邪魔します」
彼女の明るい笑顔に迎えられ、志水は靴を脱ぎ、リビングへと案内される。室内は温かみのある木目調の家具で統一され、広めのキッチンが印象的だった。きっと、ここで数え切れないほどのお菓子が生み出されてきたのだろう。
「今日はね、クイニーアマンに挑戦するの!」
「クイニーアマン?」
「うん。ブルターニュ地方の伝統菓子でね、発酵生地にバターと砂糖を何層にも折り込んで焼き上げるんだ。外はカリカリ、中はじゅわって甘いの」
彼女は嬉しそうに材料を並べていく。強力粉、バター、砂糖、ドライイースト。普通のパン作りに近いが、バターと砂糖を大量に使うのが特徴らしい。
「でもこれ、すっごく難しいんだよ。生地を折るときにバターが溶けちゃうと台無しになるし、砂糖が焦げすぎても失敗。だから今日は志水くんと一緒に頑張ろうと思って!」
挑戦的な笑みを浮かべる四宮。その表情に志水は苦笑しつつも、心の奥ではわくわくしていた。
「よし、それじゃあまず生地からね!」
二人は手を洗い、作業に取りかかる。ボウルに粉とイースト、水を入れ、木べらで混ぜていく。志水が力を込めて生地をこねると、四宮がじっと見つめてきた。
「上手! 力加減がちょうどいいよ。」
「家で料理してるから、多少は慣れてるんだ。」
「ふふっ、頼りになるなあ。」
褒められると、志水の耳がわずかに赤くなった。普段は目立たない自分が、彼女の役に立てている――それが、妙に心を温かくする。
一次発酵を終え、いよいよ折り込み作業。大きな四角に伸ばした生地の中央にバターをのせ、包み込むように折りたたむ。
「ここからが大変なの。力を入れすぎるとバターが逃げるし、弱すぎると層にならないし」
「つまり、ちょうどいい力加減が大事ってことか」
「そう! さっきのこね方を思い出してね」
志水は麺棒を手に、生地を慎重に伸ばしていく。バターがはみ出さないよう気を配ると、四宮が隣から身を乗り出して覗き込んだ。距離が近く、彼女の髪が頬に触れそうになる。甘い香りが鼻先をかすめ、心臓が不意に跳ねた。
「……いい感じ! さすがだね」
「いや、まだ一回目だし」
「でも、この調子なら絶対上手くいくよ」
四宮の言葉に勇気づけられ、志水は何度も折り込みを重ねる。砂糖を振りかけながらの折り込みは特に神経を使ったが、二人で交代しながら進めるうちに、作業そのものが楽しく思えてきた。
「こうして一緒に作ると、時間があっという間に過ぎるね」
「そうだな。普段は空を見てぼーっとしてることが多いから、こういう集中する作業は新鮮だよ」
「空を見るのもいいけどね。……でも私は、志水くんとお菓子作ってる方が好きかも」
軽やかに告げられた言葉に、志水は思わず手を止めた。四宮は照れ隠しのように笑い、また作業に戻ってしまう。胸の奥に小さな熱が広がり、志水はその背中を見つめていた。
最終発酵を終え、型に入れた生地をオーブンに並べる。スイッチを入れると、甘い香りがゆっくりと部屋に広がっていった。
「いい匂い……!」
「これは期待できそうだ」
焼き上がりを待つ間、二人はリビングのソファに腰掛けた。四宮は嬉しそうに膝を抱えながら言った。
「ねえ、調理部のこと、本気だからね」
「本気?」
「うん。学校に申請出して、部室とかもらって、いろんなお菓子作ったり、料理研究したり……。絶対楽しいと思うんだ」
「なるほど……それは楽しそうだな」
志水は素直にそう思った。彼女となら、きっとどんな挑戦も楽しいだろう。
やがてタイマーが鳴り、二人はキッチンへ駆け戻る。オーブンを開けると、黄金色に輝くクイニーアマンが姿を現した。カリカリにキャラメリゼされた表面がきらきらと光り、バターと砂糖の香りが一気に広がる。
「わあっ……! 成功だよ!」
「本当に、きれいに焼けたな」
四宮はミトンをはめてトレイを取り出し、皿に並べる。その顔は誇らしげで、子供のように無邪気だった。
「さあ、食べよ!」
熱々のクイニーアマンをひと口かじると、外側はカリッと音を立て、中からはバターの甘い風味がじゅわっと広がった。思わず志水は目を見開いた。
「……美味しい」
「でしょ!? やったぁ!」
四宮は嬉しさのあまり両手を広げて、勢いよく志水に抱きついてきた。驚いた志水は固まったが、すぐに彼女の体温と高鳴る鼓動を感じ取り、心臓が大きく跳ねた。
「ご、ごめん!」四宮は慌てて離れ、頬を赤く染めた。
「嬉しすぎて、つい……」
「……気持ちは伝わったよ」
志水も視線を逸らしながら答える。頬が熱いのは、焼き立てのお菓子のせいだけではなかった。
テーブルの上には、二人で作った黄金色のクイニーアマン。甘い香りに包まれながら、二人の距離は確かに縮まっていた。
放課後の家庭科室は、まだ今日の授業の余韻を残していた。大きな作業台の上には片づけ切れていないボウルや泡立て器が置かれ、漂う甘い香りは昼に作られたプリンのものだろう。窓から差し込む夕陽に照らされ、金属の器具が鈍い光を返している。
四宮は緊張した面持ちで立ち上がり、隣に座る志水の袖をそっと引っ張った。
「……よし、行こうか」
「うん」
二人は家庭科準備室の扉をノックした。中から「どうぞ」と聞き慣れた声が返ってくる。
志水がドアを開けると、そこには家庭科教師の春原先生がいた。四十代半ば、柔らかな物腰で生徒から慕われている女性だ。眼鏡越しに二人を見て、少し驚いたように笑みを浮かべた。
「あら、四宮さんに志水くん。どうしたの? 二人揃ってなんて珍しいわね」
四宮は深呼吸し、一歩前へ出る。
「あの、先生。私たち、お願いがあってきました!」
「お願い?」春原先生は眼鏡を押し上げ、椅子から立ち上がる。柔らかい口調ながら、視線は真剣そのものだ。




