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第十話第二章

 窓の外では、相変わらず白い雲が流れていた。志水が見ていた穏やかな空は、今は二人の背後に広がっている。代わりに、目の前には四宮の笑顔があった。


 ――優しい空を眺める時間も悪くない。けれど、こんなふうに誰かと笑い合う時間も、悪くないな。


 志水は心の中でそう思いながら、ほんの少しだけ自分からも四宮に近づいた。


 四宮が差し出したクッキーを口にした志水の表情がわずかに和らぐと、その様子を見ていたクラスメイトたちがざわめきを見せはじめた。


 「おいおい、また四宮の手作りか?」


 「志水、やるじゃん。特別扱いか?」


 机の間から軽口が飛んでくる。普段から四宮は友人にお菓子を配ることがあるが、今日の様子はどこか違って見えたらしい。彼女が机を寄せてまで志水に近づき、熱心に感想を求める姿は、確かに周囲の目を引いた。


 「ち、違うってば!」

 四宮は慌てて手を振った。「別に特別とかじゃないし。ただ志水くんが食べてみてくれるかなって思っただけ!」


 だが、その必死な弁解がまたクラスの笑いを誘った。

 「へえー? そういうの、特別って言うんじゃないの?」


 「まあまあ、志水も嬉しそうだしな」


 志水は肩をすくめ、苦笑を浮かべる。からかわれて嫌な気持ちはなかった。ただ、普段はあまり自分が話題の中心になることがないので、少し落ち着かない。


 「……賑やかだな」

 

 「ごめんね、志水くん。私のせいで」

 

 「いや。別に悪い気はしないよ」


 そう答えると、四宮はほっと息をついて微笑んだ。茶色のツインテールが揺れ、その笑顔が教室の光を受けて一層鮮やかに見えた。その姿を目にした瞬間、志水の胸の奥に、小さな温かさが芽生えた。――彼女の明るさは、ただ賑やかなだけじゃない。人を安心させる力を持っている。そう感じた。


 昼休みが終わり、授業が再開しても、クラスメイトたちの視線は時折二人に注がれた。ノートに視線を落としながらも、志水はその気配を意識してしまう。彼の心は、からかいの声よりも、隣で笑う四宮の姿に引き寄せられていた。


――――――放課後――――――

 夕焼けが窓を赤く染める頃、教室にはもう数人しか残っていなかった。黒板に残るチョークの線も橙色の光に照らされ、少しぼやけて見える。志水は教科書をカバンにしまいながら、ふと隣の席に視線をやった。そこにはまだ四宮がいた。


 「四宮さん、まだ帰らないの?」


 「うん。ちょっとノートまとめてたら遅くなっちゃった」


 机に広げられたノートは、きれいに色分けされ、丁寧にまとめられている。意外にも几帳面な一面に、志水は少し驚いた。


 「へえ。見やすいね」

 

 「ほんと? やった。……あ、よかったらコピーしてもいいよ」

 

 「いや、自分で書くよ。でもありがとう」


 二人の会話は穏やかだった。教室のざわめきが消えた今、昼間とは違う落ち着いた空気が漂っている。窓の外には夕暮れの空。昼間の明るい青ではなく、赤と紫が混じった柔らかな色合い。志水は思わずその空を眺めた。


 「志水くん、ほんと空見るの好きだよね」四宮の声に、志水は少し照れたように頷く。


 「そうかも。なんとなく落ち着くんだ」


 「わかるなあ。私もお菓子作ってるとき、そんな感じ。余計なこと考えなくていいし、楽しいし」


 「……似てるのかもしれないね」


 「え?」


 「私にとっての空と、四宮さんにとってのお菓子。どっちも心を落ち着けてくれるんだろうな」


 一瞬、四宮の目が丸くなった。それから、ふわりと笑う。

 「……そういうこと言うと、ちょっとドキッとするよ?」


 冗談めかして笑ったはずなのに、その声にはどこか照れが混じっていた。志水の胸がわずかに高鳴る。昼間の賑やかさの中では気づかなかった鼓動が、静かな放課後にはっきりと響いていた。


 「ねえ、志水くん」


 「ん?」

 

 「また、バスで一緒になったら……隣、座ってもいい?」


 四宮は少しうつむき加減に、しかし瞳は真っ直ぐに彼を見ていた。ツインテールの毛先が夕焼けに染まり、赤く輝いている。


 「……もちろん」


 その一言に、四宮はぱっと顔を輝かせた。昼間の元気な笑顔とは違い、今はどこか柔らかく、秘密を共有したような親しさがあった。


 窓の外の空は、ゆっくりと夜へと移り変わろうとしている。昼の賑やかなざわめき、からかい、笑い声――すべてが遠のいたあと、残ったのは二人きりの時間だけだった。


 教室に残る夕陽は次第に赤みを増し、窓際に座る二人を柔らかく照らしていた。四宮はノートを閉じ、机に頬杖をつくと、ふっと笑った。


 「ねえ、志水くん。さっきのクッキー、ほんとに美味しかった?」


 「もちろん。本当に上手だと思うよ。売り物みたいだった」


 「うわ、嬉しい。ありがとう!」


 彼女は子供のように手を叩き、嬉しさを隠そうともしない。その姿に志水の口元も自然とほころぶ。


 「でもさ、クッキーだけじゃなくて、ケーキとかパンとかも作るんだよ。最近はプリンの研究してて……蒸し時間とか温度で全然違うの」

 

 「なるほど。そういう細かい調整が必要なんだな」

 

 「うん! 理科の実験みたいで面白いんだよ」


 四宮の目は輝いていた。お菓子作りの話になると、彼女は言葉に熱を込め、夢中になって語る。その様子を聞いているうちに、志水の胸の奥にも温かいものが芽生えていった。


 「……私も、簡単な料理くらいならできるよ。卵焼きとか、味噌汁とか」


 「えっ、そうなの? 意外!」


 「家でよく作るからね。そんなに大したことじゃないけど」


 「でもすごいよ。料理できる男子って、ちょっとカッコいい」


 茶色のツインテールがふわりと揺れ、彼女はにこにこと笑った。その笑顔に、志水の胸がどきりとする。


 しばし沈黙が流れたあと、四宮が不意に顔を上げた。瞳がきらきらと輝き、何かを思いついたように声を弾ませる。


 「ねえ、志水くん」

 

 「ん?」

 

 「一緒に調理部、作ってみない?」


 突然の提案に、志水は目を瞬かせる。四宮は真剣な眼差しで彼を見つめていた。まるで、今この瞬間に決意を固めたかのように。


 「私ね、もっと色んなお菓子や料理を作ってみたいの。でも一人じゃ限界あるし……志水くんなら、一緒に楽しんでくれるかなって」


 夕陽の光に染まった彼女の笑顔は、ただの思いつきではない輝きを帯びていた。

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