第十話第一章
放課後のバスは、夕暮れの光を受けて静かに走っていた。窓ガラスには橙色の街並みが流れ、車内には部活帰りの生徒たちの笑い声が小さく響く。
志水諒丙は、最後部に近い席に腰を下ろしていた。鞄を膝に抱え、外の景色をぼんやりと眺める。彼は成績こそ優秀で、教師からも一目置かれているが、友人は多くない。無口というほどではないが、必要以上に人と群れることを好まない。落ち着いた物腰と淡々とした態度が、結果として彼を孤立気味にしていた。
その視界の端に、ふと見覚えのある姿が映る。
四宮朱華。同じクラスの女子だった。黒髪を肩で揃え、整った制服姿のまま静かに車内へ乗り込む。特に目立つ存在ではない。だが、その控えめな立ち居振る舞いが、どこか周囲の喧騒から切り離されたように感じさせる。
朱華は、空いていた二人掛けの席に座り、鞄を膝に置いた。しばらくして文庫本を取り出し、静かにページを開く。紙の擦れる音すら、彼女の周囲では余計な音に思えた。
志水は、気づかないふりをした。視線を外に固定し、目が合わぬように心を落ち着ける。わざとらしくはならない程度に、ただ「偶然同じバスに乗り合わせただけ。」という態度を保つ。
しかし耳は、どうしても彼女の仕草を拾ってしまう。ページをめくるたびに、わずかに指が震えるような感覚さえ想像できた。
四宮朱華――彼女について、志水は断片的にしか知らない。友達が全くいないわけではないが、必要とされたときにだけ言葉を返し、深く関わろうとはしない。放課後はすぐに塾へ向かい、帰宅すれば寝る。そんな単調な生活を繰り返していると聞いたことがある。
彼女がどんな気持ちで日々を過ごしているのか。そこに興味を持つ者は少ない。
――志水自身も、これまではそうだった。
だが今、同じ車内で文庫本を開く姿を見ていると、心がざわついた。決して派手ではない。だが、どこか寂しげな横顔が、妙に目を惹くのだった。
車内アナウンスが流れ、次の停留所が告げられる。志水は降車ボタンを押す指をわずかに迷わせた。彼女も同じ場所で降りるのか――そんなこと、普段なら気にしない。だが今夜だけは、なぜか気になって仕方がない。
バスが停まり、立ち上がった朱華の背中を見て、志水も席を立つ。足取りは自然を装ったが、意識はどうしても彼女に引き寄せられていた。
夜風が車外に広がる。二人は同じ停留所で降り、無言のまま歩き出した。
距離は近すぎず、遠すぎず。まるで互いに存在を認識しながらも、口に出すことを避けているようだった。
朱華は振り返らない。志水も声をかけることはなかった。
けれど、足音だけが奇妙に重なり、街灯に伸びる影が並んで進んでいく。
(……また、同じになったらどうしようか。)
志水の胸に、ふとそんな考えがよぎった。
自分でも理由は分からない。だがその一瞬の期待が、彼の心に小さな灯をともした。
四宮朱華の影は、やはり何も語らず、静かに夜へと消えていった。
正午ほどの教室は、昼休みを迎えてまだ穏やかなざわめきを残していた。廊下から差し込む光は柔らかく、窓の外には初夏の空が広がっている。青の上に淡い雲がゆるやかに流れ、見ているだけで心を軽くするような景色だった。志水諒丙は、自分の席に腰を下ろし、何となくその空に視線を預けていた。
彼は特別に目立つ存在ではない。けれど周囲からは「優しい」と評されることが多い。実際、困っている人がいれば声をかけ、手を差し伸べることをためらわない。本人はそのことを特別なこととは思っていないが、自然にそう振る舞える柔らかさが彼にはあった。
窓の外を見ているときの彼の横顔は、いつもより少し大人びて見える。陽光に照らされた黒髪がきらりと揺れ、まぶしそうに細められた瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「ねえ、志水くん」
明るい声が彼の耳をくすぐった。振り返ると、そこには四宮朱華が立っていた。茶色がかった髪を左右でツインテールに結び、少し元気すぎるくらいの笑顔を浮かべている。彼女はクラスでもひときわ目立つ存在だ。活発で、誰とでも物怖じせずに話す。しかもお菓子作りが得意で、しばしば友人たちに手作りのクッキーやマフィンを配っては喜ばれていた。
「バス、一緒だったよね?」
彼女は何のためらいもなく志水の机の隣に腰を下ろした。距離感はかなり近い。机と机の間にわずかな隙間しかなく、そのせいで彼女の香りがふわりと漂ってきた。甘い、焼き菓子のような匂いだった。
「ああ、そうだったね」
志水は少し驚きながらも、穏やかに答えた。彼にとっては、四宮のように自分からぐいぐいと近づいてくるタイプは珍しい。けれど不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、その明るさに圧倒されつつも安心感を覚えていた。
「やっぱり! 見かけたとき、声かけようか迷ったんだ。でもちょっと眠そうにしてたからやめちゃった」
「そうだったかな」志水は微笑みながら頷く。
確かに、朝のバスの中で彼は窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。眠気というより、単に心を落ち着けていたのだが、周りから見れば眠たげに映ったのかもしれない。
「ねえ、バスって毎日同じの乗ってる?」
「うん、大体はね。家から一番近い路線だから」
「じゃあ、これからも一緒になることあるかも! 楽しみだな」
四宮は嬉しそうに笑う。その無邪気な声に、周囲の友人たちがちらりと視線を送った。教室のざわめきの中で、二人の会話が小さな灯りのように浮かび上がっている。
「……四宮さんは、いつも元気だね」
「そう見える? でも本当だよ。私、朝からお菓子焼いたりしてると元気出るんだ」
「お菓子?」
「うん! 今日もクッキー焼いてきたんだ。ほら」
四宮はカバンから小さな袋を取り出した。中には丸いクッキーがいくつも詰められている。香ばしい匂いが袋越しに広がり、志水の鼻をくすぐった。
「よかったら食べてみて。味の感想とか、ちゃんと聞きたいの」
「いいの?」
「もちろん!」
志水は少し戸惑いながらも、袋を受け取った。彼女の目は真剣だった。ただ配って喜ばれるのが目的ではなく、自分の作ったものを誰かに味わってほしいという気持ちがにじみ出ていた。
一枚口に入れると、ほろりと崩れる食感とともに優しい甘さが広がる。バターの香りが強すぎず、控えめでちょうどいい。思わず表情が緩んだ。
「……美味しい」
「ほんと!? やった!」
四宮は両手を胸の前でぎゅっと握り、ぱっと顔を輝かせた。彼女の笑顔は教室の中でいちばん明るく、眩しかった。
「これなら、また作ってきてもいい?」
「うん。楽しみにしてるよ」
「よし、決まり!」
彼女は無邪気に笑いながら、また一歩距離を詰めるように体を寄せてきた。志水はわずかに背を伸ばしたが、逃げることはしなかった。彼女の元気さと温かさが、自然と心の壁を溶かしていく。




