第九話最終章
気づけば椅子を乱暴に引いて立ち上がっていた。
「ちょっと空気悪いから、外で休んでくる!」自分でも意味の分からない言い訳を残し、ドアを閉める。
廊下の冷たい空気が頬を撫でた。玲奈は壁にもたれ、深呼吸する。胸の奥は嫉妬と苛立ちでぐちゃぐちゃだった。
――何でこんな気持ちになるのよ。あいつなんか、嫌いなはずなのに。
けれど、徹が真希子に向けたあの柔らかな笑顔が、頭から離れなかった。
生徒会室を飛び出した玲奈は、人気のない廊下の窓辺に身を預けていた。外は夕陽が差し込み、橙色の光が床を染めている。胸の奥はもやもやと熱く、理由を言葉にできない苛立ちが渦巻いていた。
足音が近づいてくる。慌てて振り返ると、徹がこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。
「……何してるんだ、お前」息を整えながら彼が言う。玲奈は顔を背け、そっけなく答えた。
「別に。休んでるだけよ」
徹はその言葉を疑うようにしばらく沈黙し、窓際に立つ彼女と同じ高さになるよう少し身を屈めた。「どうしたんだ。さっき、急に席立っただろ。」
柔らかな声で問われると、玲奈の心は一瞬ぐらついた。しかし素直に理由など言えるはずがない。
「……うるさいわね。あんたには関係ないでしょ。」突き放すように言いながらも、その言葉が自分を守る盾のようにしか聞こえなかった。
徹は眉を寄せ、だが怒ることなく優しい声を重ねる。「関係ある。お前は今、生徒会の一員だ。仲間が困ってたら気づくだろ、普通」
玲奈は言葉に詰まる。胸の中にあった「必要ないんじゃないか」という不安を、見透かされた気がした。
「……私は、別に困ってなんか……」反論しようとした声はかすれてしまう。
徹は窓の外へ視線を向けながら、少しだけ笑った。「無理に言わなくてもいい。でも、私には隠すな」その一言に心臓が跳ねる。玲奈は反射的に顔を赤らめ、ぷいと横を向いた。
「な、何よ……偉そうに……」吐き捨てるように言いながらも、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じた。悔しいのは、その感情を否定できないことだった。
徹はそれ以上追及せず、ただ隣に立ってくれた。その静かな気配が、玲奈には不思議と安心できた。
――どうして、こんなに気になるのよ。嫌いなはずなのに。
夕陽がさらに赤みを増し、二人の影を長く伸ばしていった。玲奈は結局最後まで素直になれず、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
校舎は普段とはまるで別世界のように彩られていた。廊下には色とりどりのポスター、教室からは呼び込みの声や笑い声が絶え間なく溢れている。玲奈はその喧騒の中を歩きながら、胸の奥に芽生え続ける焦燥を抑えられなかった。
――どうして、あの二人はあんなに自然なの。
生徒会の出し物である「展示企画」は順調そのもので、受付に立つ真希子と西のやり取りは誰が見ても息が合っていた。来場者に笑顔で説明する西、その横で柔らかく補足する真希子。その姿はまるで完璧なコンビのようで、周囲からも「いい雰囲気だね」などと囁かれているのが聞こえてきた。
玲奈は胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
――私だって生徒会の一員なのに。なんで、私じゃなくて小林さんなの。
彼女の心はざわめき、落ち着かなくなる。机に資料を並べながらも、視線はどうしても二人に向かってしまう。西が笑うたび、真希子の肩が揺れるたび、胸に針が刺さるようだった。
気づけば、指先が震えて資料を落としていた。
「朝倉、大丈夫か?」すぐに西の声が飛んできた。真希子が拾おうと屈んでくれる。
「ごめんなさい、手元が……」必死に取り繕う玲奈の声はかすれていた。
その瞬間、決意が芽生えた。
――もう、待っていられない。私が言わなきゃ、あの二人は本当に近づいてしまう。
午後のプログラムも順調に進み、人の流れが落ち着いた頃。玲奈は意を決して西に声をかけた。
「ねえ、西。ちょっと……話があるんだけど」不意を突かれたように彼は瞬きをしたが、すぐに頷いた。
「分かった。どこで?」
「……空き教室で」その一言を口にしただけで心臓は爆発しそうに跳ねた。
二人は人混みを抜け、廊下の奥にある使われていない教室へ入った。扉を閉めると、祭りの喧騒は遠くかすかなものに変わる。窓から差し込む午後の光が埃を照らし、静寂が支配していた。
「それで、話って?」西が問いかける。玲奈は拳をぎゅっと握り、唇を震わせながら視線を逸らした。
「……私、ずっと、気になってたの」声は小さく、しかし確かに教室に響いた。
「小林とあんたが一緒にいるの、見てると……胸が苦しくなるのよ。なんで私じゃないのって、何度も思った」絞り出すような言葉。自分でも驚くほど素直な告白だった。
西は黙って彼女を見つめていた。その沈黙が怖くて、玲奈はさらに言葉を重ねる。
「私は……あんたが好きなの、西。最初は嫌いだった。強引で、自分勝手で……でも、気づいたら目で追ってた。助けられるたびに、心臓が痛くなるくらいに。」
顔を真っ赤にしながらも、玲奈は真正面から彼を見た。「だから……小林じゃなくて、私を見てよ」
教室の空気が張り詰める。玲奈の鼓動は耳の奥で轟音のように響き、時間が止まったかのようだった。
西はゆっくりと口を開いた。「……朝倉、お前、ようやく本音を言ったな」その言葉に玲奈は目を瞬く。
「私は最初から、お前を放っておけなかった。強がってるけど、誰よりも孤独に耐えてたのを知ってる。だから助けたんだ」真っ直ぐな瞳に射抜かれ、玲奈の心臓が跳ねる。
「小林は確かに頼りになるし、いい仲間だ。でも……私が気になってるのは、玲奈だよ。」
玲奈の目に涙が浮かんだ。必死に隠そうとしても溢れてしまう。
「……ほんとに?」
「嘘ついてどうする」そう言って西は少し笑った。
玲奈は堪えきれず、彼の胸に飛び込んだ。強く抱きしめられると、胸の奥の不安が溶けていくようだった。
やがて二人は少しだけ距離を離し、互いの顔を見つめ合った。玲奈は涙混じりの笑みを浮かべる。
「バカ……もっと早く言ってよ」
「玲奈こそ、素直じゃないから」
再び笑い合う二人の声が、空き教室の静寂に溶けていった。外からは学園祭の賑やかな音が微かに響いてくる。だが、この瞬間だけは世界に二人しかいないようだった。
玲奈の心は確かに決まっていた。もう逃げない。西を好きだという気持ちを、これからは正面から抱きしめて生きていく。
二人は教室の窓際に腰を下ろし、肩を寄せ合ったまましばらく沈黙を楽しんだ。玲奈の胸には、ようやく訪れた安堵と、まだ消えない誇りが混ざっていた。
「……昔は、何でも思い通りになったのにね。」玲奈がぽつりと呟く。西は意味をすぐに理解したように、微かに笑った。
「だから、今の私が助けなきゃならなかったんだろ。」言葉は軽いけれど、心の奥の重みを二人だけが知っていた。
玲奈は少し俯き、かすかに笑む。元は大会社の社長令嬢。誰もが敬遠する立場にあった自分が、今はただ一人の少年の胸に寄り添える存在になったことが、不思議でならなかった。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。玲奈の瞳に、ほんのりと誇りと決意が灯る。
「……でも、もう昔の私じゃない。今の私を、見ていてほしい」
西はうなずき、そっと手を握った。二人の間に、誰にも侵せない絆が静かに芽生えた瞬間だった。




