第九話第三章
翌週の放課後。
玲奈は生徒会室の前に立っていた。扉の向こうから人の気配がする。胸が早鐘のように鳴り、指先が汗ばんだ。
――何で私がこんなところに。
文句を並べたい気持ちでいっぱいだった。それでも扉を開けたのは、あの日図書館で徹に言った言葉が心に残っていたからだ。
「仕方ないから役員をやってあげる」――。自分で言い出した以上、逃げ出すのは格好悪い。
ドアを押すと、室内は思った以上に整然としていた。長机が二列に並び、壁際には資料の入ったキャビネット。窓から差し込む夕陽が床に伸びている。
その中央に座っていたのは、西徹と副会長の小林真希子だった。
「来てくれたんだな、玲奈」徹が穏やかに笑む。その声が、不思議と緊張を和らげる。
「……別に、約束しただけだから」ぶっきらぼうに答える玲奈に、徹は頷いた。
「朝倉さん、改めてよろしくお願いします」柔らかく声をかけてきたのは、小林真希子だった。黒髪をまとめ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。姿勢は正しく、言葉遣いも丁寧だ。
「私は副会長の小林真希子です。学年はあなたと同じ二年。これから一緒に活動できるのを楽しみにしています」
玲奈は一瞬、息を呑んだ。真希子の礼儀正しさと穏やかさが、自分とは対照的に思えたからだ。
「……よろしく」小さく返すのがやっとだった。
徹が軽く手を叩き、場を整える。
「それじゃあ、初めての会議を始めよう。テーマは――来月の学園祭についてだ」
資料が配られ、三人は机を囲んで座った。
「今年は例年より規模を大きくしようという声が多い」徹が説明を始める。
「ステージイベントや模擬店の数も増える見込みだ。ただ、その分予算も時間も必要になる。僕たち生徒会がしっかり調整しなければならない」
真希子が静かに頷き、手元のノートに整然と書き込む。
「各クラスの希望をまとめるだけでも時間がかかりそうですね。公平性を保つために、抽選方式を導入するのはいかがでしょうか」
「いい案だな」徹が感心したように答える。
そのやり取りを横で見ながら、玲奈は胸の奥に小さな棘を感じていた。
――完璧ね。まるで生徒会に生まれるために存在しているみたい。
自分には、あんな落ち着きも気品もない。気づけば腕を組み、そっぽを向いていた。
「玲奈はどう思う?」突然振られて、心臓が跳ねた。
「えっ……私?」
「そう。君の意見も聞きたい。」
冷静さを装おうとしたが、口調は少し強くなってしまった。「……抽選なんて回りくどいでしょ。結局はやりたい人が強引に押し切るんだから、最初から実力主義にしたほうが早いわ」
真希子が少し目を見開いた。だが徹は否定もせず、考えるように顎に手を添える。「なるほど。公平性か、効率か……難しいところだな」
「どっちも大事だと思います」真希子が控えめに補足する。
「でも、玲奈さんの言うように現実的な側面も無視できませんね」
意外にも真希子がフォローする形になり、玲奈は戸惑った。
「……別に、庇わなくてもいいのよ」
「庇っているわけではありません。意見には一理ありますから」微笑む真希子の表情は、敵意どころか柔らかさに満ちていた。
その優しさがかえって眩しく、玲奈は居心地が悪くなった。
会議はさらに進み、模擬店の配置や安全管理の話題へ移った。真希子は丁寧に資料をまとめ、具体的な提案を次々と出していく。
玲奈は時折思いついたことを口にする。
「そんな細かい規則作ったって守らないやつは守らないわよ。」
「なら、罰則をつければいい。罰があるって思えば、みんな真面目にやるでしょ。」
徹は真剣にその言葉を受け止め、議論に取り入れていった。
「面白い意見だな。罰則の程度をどうするかは考える必要があるけど」
玲奈の胸が不思議に温かくなった。軽く言っただけの言葉を、ちゃんと価値あるものとして扱ってくれる――そんな経験は初めてだった。
しかし隣では、真希子が徹を見つめ、微笑んでいる。その視線が玲奈には妙に引っかかった。
――副会長として、会長を尊敬しているだけ。そうに決まってる。
そう思い込もうとしても、胸の奥にざらつきが残る。
会議が終わる頃、窓の外は夕闇に染まっていた。
「今日はありがとう。初めてなのに、いい議論ができた」徹が満足げに言う。
「はい。これからも力を合わせていきましょう」真希子が柔らかく微笑む。
玲奈は立ち上がり、鞄を肩にかけた。「……別に、協力するって決めたわけじゃないから」
ツンとした声でそう言ったが、徹は微笑んだままだ。「でも、君がここにいる。それが何より大事なんだ」胸が熱くなる。何かを返そうとしても、言葉は出なかった。
生徒会室を出るとき、後ろから真希子の声が追いかけてきた。
「玲奈さん、これからよろしくお願いしますね」
玲奈は振り返らずに手をひらひらさせた。「……あんまり期待しないで」
廊下を歩きながら、心臓の鼓動が止まらなかった。
――私、何をやってるんだろう。
徹の言葉、真希子の微笑み。二人の間に自分が入り込むことの意味。まだ答えは出せない。ただ、逃げることはできないと思った。
学園祭準備が本格的に始まり、生徒会室は連日慌ただしさを増していた。壁に貼られたスケジュール表は書き込みで埋まり、机の上には各クラスから提出された希望書類の山。
玲奈は資料をまとめる役を任されていたが、視線は何度も横へ逸れてしまう。
「ここはこの順番で配置すれば、動線が重ならないと思います」真希子が指先で図面を示す。
「確かに。人の流れも自然になるな」徹がうなずき、すぐに赤ペンで線を引き直す。
二人のやり取りは驚くほど滑らかだった。提案と修正、確認と決定――会話は途切れず、互いの意図を正確に汲み取っていく。
「小林さん、ここの時間割も調整してくれるか」
「はい、先生方に確認を取っておきます」
「助かる」
自然に笑い合う姿に、玲奈は胸の奥がざわついた。
――どうして、そんなに息が合うの。
ペンを握る手に力が入り、インクが紙に滲んだ。慌てて隠そうとしたが、徹が気づいて近づいてきた。
「大丈夫か?」
「べ、別に……」強く言い放ち、視線を落とす。
徹はそれ以上追及せず戻っていった。再び真希子と顔を寄せ、地図に赤を入れていく。その姿がまるで二人だけの世界を作っているように見えて、玲奈は唇を噛んだ。
「朝倉さん、この資料をまとめてくれてありがとう。とても助かります。」真希子が穏やかに声をかけてきた。
「……別に、言われたことをしただけよ。」素直に受け取れない。褒め言葉より、徹と楽しそうに作業している姿のほうが気になって仕方がなかった。
時計の針が進み、会議は一段落。片づけをする二人の間に、また笑みが交わされる。
「小林さんがいてくれると本当に助かる」
「会長が的確に指示してくださるからですよ」その会話を聞いた瞬間、玲奈の胸に熱いものが込み上げた。
――私なんか、必要ないんじゃないの。




