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第九話第二章

―――あの日以来、玲奈は少し変わった。―――


 教室で誰かが自分を笑っても、以前ほど強く反発しなくなった。代わりに、視線の端に徹の姿を探してしまう。彼と目が合うと、慌ててノートに視線を落とす。話しかける勇気などない。けれど、不思議と近くにいたくなるのだった。


 昼休み。徹が廊下で友人たちと話している。玲奈は何気ない顔でその近くの窓際に立ち、景色を眺めるふりをした。耳は、彼の声だけを拾っている。


 「西と朝倉って、なんか最近一緒にいるよな」ひそひそ声が背中で交わされる。玲奈は振り返らない。ただ心臓の鼓動が早くなる。自分で望んだわけじゃない、と否定したいのに、足はその場から動かなかった。


 放課後の図書室。徹が静かに本を読んでいる。玲奈は迷った末、離れた席に腰を下ろした。ページをめくる音が心地よい。集中できないのに、なぜか安心する。彼が近くにいる――ただそれだけで、孤立した教室の冷たい空気から解き放たれる気がした。


 帰り道、昇降口で靴を履き替えるとき、徹の背中が目に入る。思わず一歩、二歩と後ろをついていく。彼が振り返ったらどうしよう、と胸が高鳴る。けれど徹は気づかぬふりをして、ただ同じ歩調で進む。

 

 玲奈は唇を噛んだ。言葉にはできない。けれど――「そばにいる」ということだけが、今の彼女にとって唯一の選択だった。


  放課後の図書館は、静謐な空気に包まれていた。

 カーテンの隙間から差し込む夕陽が、机に淡い橙色を落としている。


 玲奈は窓際の席に座り、開きっぱなしの教科書に目を落としていた。だが文字は頭に入らない。指先でページを撫でるばかりで、心は落ち着かなかった。

 ――本当は帰りたい。でも、教室に残るのも、街に出るのも気が重い。ここなら静かに時間をやり過ごせる。


 ふと、影が差した。

 顔を上げると、西徹が立っていた。いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


 「ここ、隣いいかな」

 玲奈は一瞬言葉を失った。けれど強がるように、冷ややかに返す。

 「……自由にすれば」


 徹は頷き、玲奈の隣に腰を下ろした。机に置かれた分厚いノートを開くと、さらさらとペンを走らせ始める。その姿を横目に、玲奈の胸は落ち着かない。


 沈黙が数分続いたあと、徹が口を開いた。「朝倉さん、生徒会に興味はあるか?」


 唐突な誘いに、玲奈は思わず顔を上げた。「はぁ? なんで私がそんなこと」

 

 「実はね、今の生徒会、僕と副会長の小林さんしかいないんだ」徹は困ったように笑う。

 

 「活動を回すには人手が足りなくてね。役員を探しているんだ」


 玲奈は呆れたように息を吐いた。「……だからって、私に声をかけるなんて間違ってるわ。」

 

 「そうかな?」

 

 「そうよ。私なんて、みんなから嫌われてるの、知ってるでしょ。」


 その言葉に、徹は少し目を伏せた。「確かに今はそうかもしれない。でも、それは誤解や噂のせいだ」

 

 「誤解?」

 

 「君は強がってるだけで、本当は責任感が強い」


 玲奈の心臓が跳ねた。思わず視線を逸らす。「な、何を勝手に決めつけてるのよ」

 

 「決めつけじゃない。君を見ていて、そう感じたんだ」


 言葉を失う。徹の声は静かで、偽りがない。だからこそ玲奈は返せなかった。


 「副会長の小林さんは、とても丁寧で落ち着いた人だ。けれど彼女一人では、突発的な問題に対応できないこともある。君なら……違うやり方で支えてくれると思う。」


 玲奈は机に頬杖をつき、わざと退屈そうに呟いた。「ふん……またお人好しなこと言って。」

 

 「お人好しでもいいさ。」徹は笑った。その穏やかさが、なぜか心に刺さる。


 しばらく沈黙が流れた。図書館の奥から、時計の針の音だけが響く。


 「……私なんかが入ったら、余計に生徒会の評判が悪くなるんじゃないの?」ぽつりと零れた本音に、徹は即座に首を振った。

 

 「そんなことはない。むしろ、君がいることで変わると思う」

 

 「どうして……」

 

 「君は思っているよりも、みんなの視線を集める存在だ。いい意味でも、悪い意味でも。だったら、その力を正しい方向に使えばいい」


 玲奈は呆然とした。自分を「力がある」と言い切る人間など、初めてだった。今までの友人は、彼女の肩書きに従うだけだったのに。


 「……バカじゃないの」声は震えていた。照れ隠しに吐いたつもりだったが、自分でも苦しいとわかる。


 徹はそれ以上何も言わず、ノートに視線を戻した。玲奈は机に置いた手を見つめる。爪の先が白くなるほど力が入っていた。


 ――どうして、この人はこんなふうに私を見てくれるんだろう。


 しばらく葛藤の末、玲奈は小さく息を吐いた。

 

 「……仕方ないわね」

 

 「え?」徹が顔を上げる。

 

 玲奈は頬を赤くしながら、早口で続けた。「役員、やってあげてもいいわよ。ただし、あんたの頼みだからじゃない。……生徒会が人手不足で見ていられないからよ。」


 徹は驚いたあと、柔らかく笑った。「ありがとう、玲奈」

 

 「な、名前で呼ばないでっ」慌てて机を叩くと、周囲の生徒に睨まれてしまい、玲奈は小さく肩をすくめた。


 徹は声を潜めて囁いた。「これから、よろしく頼むよ。」

 

 玲奈はぷいと顔を背けた。「……別に、よろしくなんて言われなくてもやるわ」


 けれど胸の奥は、不思議な高鳴りでいっぱいだった。



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