第九話第一章
午後の校舎の窓辺に、淡い光が射し込んでいた。
朝倉玲奈は机に肘をつき、退屈そうにノートをめくっていた。長い髪を指先で払いながら、教室のざわめきに耳を貸そうともしない。その横顔には、誰もが「社長令嬢」という肩書を思い浮かべるような、誇らしげな自負が宿っていた。
しかし、その日――その誇りは無残に揺らぐ。
「……倒産、寸前?」
父の執務室で耳にした言葉は、まだ若い玲奈には現実味を帯びなかった。大会社の看板は絶対だと信じて疑わなかったからだ。
だが次の瞬間、父の声がさらに低く続く。
「西重工の会長が……助け舟を出してくださった。これで会社は立て直せる」
西――。その名を聞いた瞬間、玲奈の心臓が強く打った。
頭の中に浮かんだのは同じ学年の男子、西徹の顔。いつも穏やかで、教師からも信頼される。彼女がつい虚勢を張ってはからかい、軽んじる相手。
「……ただし」父は言葉を区切り、沈痛な面持ちで娘を見つめた。
「見返りに……お前を、徹君に託すと約束してしまった。彼に好きにしてもらって構わない、と」
玲奈の視界が揺らぐ。
「な、何を……言ってるの?」
父の言葉が冗談でないことは、その重い声色と落ちた肩で分かった。
信じられない。あの徹に……。
教室で軽くいなされても、最後には自分が優位だと信じてきた相手に。
その夜、玲奈はひとり部屋のベッドに沈み込み、灯りも点けずに天井を見上げた。
胸の奥を支配するのは、屈辱か、恐怖か。
それとも――これから訪れる予期せぬ出会いへの、説明のつかないざわめきか。
――――――翌朝――――――
校門の前で待っていたのは、西徹その人だった。
「……おはよう、朝倉さん。」
穏やかな笑顔と、どこまでも静かな声。いつもと変わらぬ優しさが、今の彼女には却って恐ろしく響いた。
――午後の教室は、やけにざわついていた。
廊下を歩いていた朝倉玲奈は、その空気を肌で感じ取った。自分の名前が、笑い混じりに囁かれている。机の影で視線がぶつかり、すぐ逸らされる。噂はもう広がってしまっていた。
「聞いた? 朝倉んち、倒産寸前だったらしいよ。」
「でも西会長に助けられたんだって。」
「つまりあの玲奈様も、西に頭が上がらないってこと?」忍び笑いが耳を刺す。
かつては「社長令嬢」という肩書きで、クラスの中心に立っていた。誰も逆らえず、彼女の一言が空気を支配した。
――その立場が、今は脆く崩れ去っている。
玲奈は唇を強く噛みしめた。父が口にしたあの屈辱の言葉を思い出す。
「お前を徹君に託した」――。冗談ではない。どうして、よりによってあの男に。
西徹。
いつも穏やかで、教師にも一目置かれる。生徒からは好かれ、信頼されている。玲奈にとっては苛立ちの対象だった。彼女がどんなに自慢を並べても、徹は柔らかく笑って受け流すだけ。虚勢が空振りするようで、面白くなかった。
その徹の父が、朝倉家を救った――。この噂が広まらないはずがなかった。
教室に入った瞬間、空気が冷たく変わる。誰も目を合わせない。以前なら群がってきた取り巻きさえ、距離を置いている。机に腰を下ろすと、背後で小さな声がした。
「結局、金の力だけじゃん。」
「しかも自分の家じゃなくて、西んとこだし。」
「今まで偉そうにしてたくせにね。」
――聞こえないふりをするしかなかった。
その日の放課後。校門を出ようとした玲奈の前に、徹が立っていた。
「朝倉さん」いつもと変わらぬ穏やかな笑顔。人の噂などどこ吹く風といった表情が、かえって玲奈を苛立たせる。
「……何よ」
「一人で帰るのか?」徹が優しく聞いてくる。
「あなたに関係ないでしょ。」鋭い言葉を投げても、徹は眉一つ動かさない。
「そうだな。でも……困ったことがあったら、遠慮なく言ってほしいな。」
玲奈は冷ややかに鼻を鳴らした。「助けてくれなんて頼んでない。勝手に父が決めただけよ。」
徹の瞳は静かだった。「そうだとしても、僕が君を無理にどうこうするつもりはないよ。」
「……」
「ただ、困っているなら手を伸ばしたい。それだけだ。」
玲奈の胸がかすかにざわめいた。けれど、それを認めたら自分が負ける気がした。 「お人好しね」短く吐き捨て、彼女は踵を返した。
――――――翌日――――――
教室の空気はさらに冷ややかになっていた。黒板の端に書かれた落書き――《令嬢様は西くんの持ち物》の文字。笑い声が広がる。
玲奈はそれを睨みつけ、チョークで消した。背中に刺さる無数の視線が痛い。
昼休み、廊下に出ると数人の女子に囲まれた。かつての取り巻きだった顔が、今は冷笑を浮かべている。
「ねえ玲奈、あんた西に抱かれたんでしょ?」
「どう?社長令嬢から“会長のおもちゃ”になる気分は」
「もう偉そうにできないよね。」
笑い声が刺すように降りかかる。 玲奈は唇を噛み、反論の言葉を探す。けれど、喉が塞がれたように声が出ない。
悔しさと屈辱で涙が滲んだ、そのときだった。
「やめろ。」
低く、しかしはっきりとした声が割って入った。
徹だった。「彼女にそんなことを言う権利は誰にもない。」
女子たちは一瞬たじろぐが、すぐに強がった笑みを浮かべる。
「何よ、西くん。彼女の味方するわけ?」
「味方とかじゃない。虚勢を張っていたり驕っていた部分は誰も正当化できることではないし、お金で買って友人を作ることも理解できない。でもその後ろ盾がなくなったことにより変わろうとしてる彼女の邪魔は絶対にするんじゃない。」
その真っ直ぐな瞳に、女子たちは言葉を失った。
やがて舌打ちをして散っていく。廊下に残されたのは、徹と玲奈だけ。
「……大丈夫か」声をかけられた瞬間、玲奈の中で張り詰めていたものが崩れた。悔しさと情けなさで視界がにじむ。
「大丈夫なわけ、ないでしょ……」絞り出すような声。
「……ごめん」徹の声は静かで優しい。
「謝るのは私じゃない……」そう言いかけて、玲奈は言葉を飲み込んだ。
徹はそっとハンカチを差し出した。「泣くのは悪いことじゃないよ。君はずっと一人で頑張ってきたんだ。」
玲奈は受け取らなかった。ただ、震える手で自分の涙を拭った。
悔しい。
だけど――ほんの少し、心の奥が温かくなっていた。
――――――その夜――――――
玲奈は自室で机に向かい、ノートを開いた。ページの端に、無意識に名前を書いていた。
――西徹。
慌ててペンを走らせて消す。けれど消しても消しても、胸の奥に残る温もりは消えなかった。
「……あんなの、ただのお人好しよ」小さく呟いてみても、その声は震えていた。
翌日も、噂は止まなかった。
しかし廊下の向こうに徹の姿を見つけるたび、玲奈の心は複雑に揺れた。嫌いなはずなのに――なぜか、その背中が頼もしく見えてしまう。かつて「孤高の令嬢」と呼ばれた朝倉玲奈は、初めて自分が誰かに支えられていると感じていた。
その感覚は、恐ろしくもあり、甘美でもあった。




