第八話最終章
――それから数日後。
私は予定通り東京の大学病院に入院した。手術当日の朝、真っ白な天井を見つめながら、これで全部が終わってしまうのではないかと、どうしようもなく不安になった。麻酔が効いていく直前、頭の片隅に浮かんだのは、蔵前の泣きそうな顔だった。
幸い、手術は無事に終わった。医師の説明によれば、当面の経過観察は必要だが、命に関わるようなことはなさそうだという。それでもまだ体は思うように動かず、消毒液の匂いに包まれた病室で、一人きりで横になっていると、不安や孤独がじわじわと胸を締めつけてくる。
そんなある日の午後。
「……なのです」
か細い声とともに、病室のドアがそっと開いた。
思わず体を起こそうとして、点滴の管に引っ張られ、顔をしかめる。
「来たのか、蔵前……」
そこに立っていたのは、制服ではなく私服姿の蔵前だった。落ち着いた色のワンピースにカーディガン。けれどその手には、ぎゅっと握られた紙袋があり、指先が白くなるほど力が入っている。
「……遅くなったのです。学校が終わってから、急いで電車に乗ったのです。」
彼女はそう言いながらベッドの脇まで歩み寄り、椅子に腰掛けた。ほんのり息が上がっていて、長い道のりを走ってきたのが分かる。
私は苦笑して言った。「……わざわざありがとう。大変だったでしょ。」
「べ、別に。清澄くんが勝手に入院なんてするから……お見舞いぐらい、してやるのです。」
そう言いつつも、彼女の声はわずかに震えていた。
沈黙が落ちる。窓の外では夕陽がビルの隙間に沈みかけていて、オレンジ色の光がカーテン越しに病室をやわらかく染めていた。
「……手術、怖かったのですか?」
唐突に蔵前が問いかける。
「正直、怖かったよ。気づいたら眠ってて、気づいたら終わってたけどね。」
「……私、ばかみたいに泣いてばかりだったのです。清澄くんがいなくなるかもって思ったら、授業も全然頭に入らなくて……」
彼女は膝の上で拳を握りしめ、下を向いた。長い前髪が頬にかかり、震えるまつげが夕陽を反射してきらめく。
「でも……こうして元気そうに話してくれて、本当に、よかったのです。」彼女は私の手を掴み抱きついてきた。
私はその言葉と行動に胸がじんと熱くなった。
「悪かったよ。心配かけてしまって。」
「ほんとに、ばか。もっと自分を大事にするのです。」
蔵前は小さく吐き捨てるように言ったが、その目尻にはうっすら涙がにじんでいた。
私は思わず笑みをこぼした。「泣かないでよ。大丈夫だから。」
「泣いてないのです!」
そう言って彼女は慌てて顔を背け、紙袋をごそごそと漁る。やがて中から小さな折り鶴を取り出し、私のベッドサイドにそっと置いた。
「お見舞いの定番といえば花かもしれないのですけど……私、不器用だから。だからこれで我慢するのです。」
「……十分だよ。ありがとう。」
私は折り鶴を手に取り、光にかざしてみた。薄い和紙が透け、夕陽を受けて金色に輝く。
病室は相変わらず静かで、遠くからはナースステーションの笑い声や、廊下を歩く足音がかすかに届く。だがその中で、蔵前の存在だけがやけに鮮やかで、温かく感じられた。
「……なあ、蔵前。」
「な、なんなのです?」
「退院したら、約束、覚えてるか?」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、顔を真っ赤にして俯いた。
「……二人だけの、星祭り……なのですか?」
私は頷いた。
その瞬間、彼女の唇が小さく震え、ほんの少しだけ、笑みが浮かんだ。
そして数週間後。
経過も順調で、私はようやく退院の日を迎えた。まだ体に多少の違和感は残っていたが、歩くこともできるし、普段通り話せる。何より――約束を果たすことができる。
「ほら、清澄くん。こっちなのです!」
蔵前が夜の公園の奥へと私を引っ張っていく。夏の空気は少し湿っていて、草の匂いが鼻をくすぐった。遠くで祭囃子のような音がかすかに聞こえるが、ここには人影も屋台もない。
「……ほんとに、ここでやるのか?」
「当たり前なのです。二人だけの星祭り、って言ったじゃないですか。」
彼女はそう言って、芝生の上にビニールシートを広げた。どこから持ってきたのか、小さな紙袋の中にはジュースと駄菓子が詰まっている。
「わざわざ用意してくれんだね。……ありがとう。」
「別に。ただのついでなのです。」
ぶっきらぼうに答える蔵前の横顔は、街灯に照らされてほんのり赤く染まっていた。
空を見上げると、都会の光に負けず、いくつもの星が瞬いている。退院したばかりの身で夜空を見上げると、その光がやけに鮮明に、そして尊いものに思えた。
「なあ、蔵前。」
「なんなのです?」
「蔵前が折ってくれたあの鶴、まだ持ってる。」
ポケットから小さな折り鶴を取り出して見せると、彼女の目が大きく見開かれる。
「な、なにを大事に持ち歩いてるのですか! 恥ずかしいのです!」
顔を赤くして両手で慌てて隠そうとするが、私は笑って折り鶴を胸にしまった。
「……あれ見ると、頑張れるんだよ。」
蔵前はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「ほんと、清澄くんはずるいのです。」
夜風が吹き、彼女の髪がふわりと揺れる。瞳に星の光が映り込んで、まるで空そのものを閉じ込めたようにきらめいていた。
「でも……私も、ずっと一緒にいたいって思ったのです。負けたくない気持ちばかりじゃなくて……隣にいたいから、張り合ってたのかもしれないのです。」
不意にこぼれた本音に、胸の奥が強く揺さぶられる。私は少し照れながらも、正面から彼女を見つめた。
「じゃあ、これからも……隣にいてくれるか?」
「……約束なのです。」彼女は頬を染めたまま、小さく頷いた。
その瞬間、夜空にひときわ明るい流れ星が走った。私たちは思わず顔を見合わせ、そして笑った。
――訣別は唐突にやってくる。
けれど、だからこそ、こうして交わした小さな約束は永遠に近い輝きを持つのだ。
静かな夜空の下、二人だけの星祭りは、誰にも邪魔されることなく幕を閉じた。




