第八話第一章
訣別というものは、いつだって唐突に訪れる。心の準備をしてその時を待ち構えていたとしても、いざ目の前に落ちてくると、人はたいてい無力だ。だから、それまでの時間を無駄に過ごすのは、本当に馬鹿げたことなのだろうか――そんな疑問が、ふと胸をよぎる。
「なんなのです! なんなのです! 私が間違ってるって言うのですか!?」
涙をためてこちらを睨みつける蔵前の叫びは、ざわめいていた教室を一瞬にして切り裂いた。頬はほんのり赤く、握り締めたペンの先が小刻みに震えている。視線の鋭さと声の震えとが噛み合わず、余計に彼女の必死さを際立たせていた。
――ああ、まただ。また始まってしまった。
こうなってしまうと、彼女は絶対に引かない。頑固さというより執念に近い。目の端でクラスの数人がそっとこちらを伺い、様子を楽しんでいるのが分かる。
「おっ、今日もまた始まったか。恒例の痴話喧嘩。」
「で、今回は何が原因よ?」
「いや、それがさ……ほんの数分前までは次の授業の予習を一緒にしてただけなんだよ。和訳の仕方が違ったみたいでさ。それでこの騒ぎ。」
「はぁ……仲の良さが喧嘩の火種になるなんて、ほんと呆れるわ。」
――私、川口清澄は、毎日困っている。
小さなことから大きなことまで困りごとは多いが、何よりも頭を悩ませるのは、蔵前が筋金入りの負けず嫌いであるという一点に尽きる。自分の非を認めるくらいなら、論理をねじ曲げてでも正当化しようとする。その姿はどこか滑稽で、でもいつも全力だからこそ誰も止められない。
クラスメイトもすっかり慣れてしまっている。笑いながら眺める者、呆れ顔で肩をすくめる者、ひょっとするとこっそり勝敗の賭けをしている者までいるのではないかと思うほど、自然体で受け流している。そのせいで、いつの間にか私たちは「仲の良いベストカップル」扱いをされるようになってしまった。
もちろん、そんな事実はまったくない。小学校からの縁がただ切れずに続いているだけだ――少なくとも、蔵前はそう信じているようだ。互いに下の名前を呼び合ったこともなく、ずっと苗字のまま。腐れ縁に過ぎない。……そのはずなのに。
「もう少し仲良くしたらどうだ。幼馴染なんだろ?」
その言葉に、私と蔵前は同時にぴくりと肩を震わせた。
「ばか、おまえ、それ――」
(禁句なんだよ、それは)
「幼馴染じゃないのです! ただの腐れ縁なのです! 小学校から今まで学校が同じなだけなのですっ! ぜんっぜん違うのです! なのです!」
顔を真っ赤にし、涙目で叫びながら机をばんっと叩く。その音に、さすがのクラスメイトたちも慌てて謝る羽目になった。どうしても蔵前は「幼馴染」と言われるのを許せないらしい。理由は未だによく分からない。
昔、何かあったのか――いや、余計なことを聞けば火に油を注ぐに決まっている。
「……はぁ」
ため息をひとつこぼし、私はノートに向き直った。ペン先を紙に落とし、静かに次の問題を解き始める。教室の空気が少しずつ平常へと戻っていくのを肌で感じながら。
「なんで……ため息なんてつくのですか? やっぱり、また私が悪いって言うのですか?」
机に突っ伏していた蔵前が、ゆっくりと顔を上げる。わずかに拗ねたように唇を尖らせ、その大きな瞳でじっとこちらを見つめてくる。目の奥がうるみ、頬は赤みを帯びている。小さく鼻をすする音が聞こえてきそうだった。
「授業が始まれば、わかるよ。」
できるだけ柔らかく、諭すように答える。
その瞬間、彼女の耳まで真っ赤に染まり、再び机に突っ伏した。額が軽く机に当たり、こつんと小さな音が鳴る。肩がわずかに震えていた。――涙を見せたくないのかもしれない。
もう、彼女の泣き顔なんて一生分は見てきたはずなのに。それなのに、胸の奥が妙にくすぐったくなる。そんな思いを抱えたまま、英語の黒川先生が教室に入ってきた。
スーツの襟まできちんと整え、背筋は真っすぐ。教科書に載っていそうな模範的な先生という印象は今日も変わらない。黒板にチョークを走らせる音が響き、教室のざわめきは自然と静かに沈んでいく。
そしていよいよ――私と蔵前が数分前まで言い争っていた英文の箇所に差し掛かった。
「じゃあ……誰に訳してもらおうかな。そうだ、蔵前さん。」
「は、はい……なのです。」
呼ばれた瞬間、蔵前の背筋がぴくりと反応する。さっきまで自信満々だった表情が翳り、声はかすかに震えていた。
「アメリカを横切る旅は、えっと……旅行者を矛盾する、多数の印象と意見を一緒にしておく景色と……? 文化の、まごつかせる整列を通過する旅である……だと思うのです。」
言い終えると同時に、彼女は肩を落とし、机に突っ伏した。その背中は、いつもよりも小さく見えた。
「蔵前さん、直訳も悪くないけれど、もう少し意訳を考えてみましょう。ここは、アメリカを気球で初めて横断した人の文章だから、文化要素はあまり強くないんですよ。……じゃあ、川口くん、やってみて。」
「はい〜……アメリカ縦断の旅は、あっと驚くような風景や文化を端から端まで見て回る旅であり、その驚きの連続に、旅人は数多くの相反する感想を抱くものだ……ですかね。」
「いい訳し方です。この文は難しいですが、要点を確認しましょう。
A journey across America is a journey through a bewildering array of scenery and cultures that leaves the traveler with a host of conflicting impressions and opinions.
この文の across と through はほぼ同義。また that は関係代名詞の非制限用法として訳すと自然です。」
解説を交えながら授業は淡々と進んでいく。チョークが黒板を滑る音と、ノートを取る紙の擦れる音だけが静かな教室に響いていた。
そして休み時間。
蔵前は私の机に歩み寄ると、わざとらしく鼻を鳴らした。「ふ、ふんっなのです! 先生に褒められたって、ただの運なのです!」そう言いながら髪をかき乱し、耳まで真っ赤。少し乱れた制服の胸元のボタンが一つ外れているのが目に入った。
ふいに彼女は顔を上げ、真っ直ぐに私を見つめる。瞳の奥には、悔しさと負けん気の強さが混じっている。
「次は絶対勝つのです! 英語のテストで勝つのです。まだ時間はあるのですから。」
「なら、一緒に勉強しようか?」
気付けば、ほとんど無意識にそんな言葉が口をついていた。
「……い、いいのですか? なら、川口に勝っちゃうかもなのです。」
「最後ぐらい、勝ってほしいよ。」
小さな声でつぶやいたその言葉は、蔵前の耳にははっきり届いてしまったらしい。
「……最後? まさか――」
私は急いで担任の相本先生に川口の事情を聞いたのです。「彼は引っ越しはしないが休学だよ。しばらく東京に行くんだって。これ私が話したって言わないでね。」私はなぜ休学なのか聞いたのです。先生は頑なに教えてくれなかったのです。
「…こうなったら…」蔵前が帰ろうとしていた私の腕を掴み、席に座らせる。
「なにするんだよ。急にいなくなるし。」
彼女は深く息を整えようと必死だった。
「あんた、何で休学するのです?」
川口の方が震え、いつも以上に口を閉ざした。
「病気なのですね。知ってるんですからね。」
蔵前は左手をそっと撫でながら言葉を絞り出す。
「2週間前、私が意地を張って車に轢かれそうになった時、清澄くんが私を突き飛ばして、そのはずみで縁石に頭をぶつけた……あれが原因なのですね。脳に……強い損傷を起こしてしまったのですね。うっ、うぅ……」
初めて見た。蔵前が必死に涙を堪え、顔を歪めている姿を。
「わかっちゃったか。東京に行くときになったら遊びに行くって誤魔化すつもりだったのに。」
「なんでなのです。私、ずっと清澄くんのこと、追いかけてきたのですよ。」
「えっ……私に?」
ただ張り合うためだけだと思っていたから、思わず驚いた。
「な、何でそんな真剣に見てるのです!」
彼女は慌てて顔を背け、髪をいじり始める。制服の胸元が揺れ、声が震えている。
「いや、素直に言ってくれて嬉しいっていうか。」
「べ、別に! そ、それより東京に行くの、いつなのです。」
「来週末あたり。大丈夫。治って帰ってきたら――二人だけの星祭りに行こう?」
「二人だけ? そんな約束……した覚えないのです。それに戻ってくる頃にはもう終わってるじゃないですか。」
私は少し笑った。「だから、二人だけで星祭りしようって言ってるの。」
彼女は少し照れ隠しのように肩をすくめ、それからおどけた仕草で頷いた。




