第七話最終章
――――――一週間が経ち――――――
藍は東京・上野の駅前に立っていた。朝の光が穏やかに街を照らし、通りを行き交う人々の足音や会話が町に活気を与えている。今日は左近と会う日。あの日、工房や神社を共に歩いた温かい時間を思い返し、胸の奥が少し高鳴る。
「少し緊張するな……」藍は小さく自分に言い聞かせ、駅前の広場を見渡す。
すると、人混みの中に黒いスーツ姿の左近が現れた。整った髪、清潔感のある立ち姿、淡々としていながらも、どこか柔らかさを感じさせる雰囲気。藍の心臓が一瞬強く跳ねた。
「おはようございます、左近さん」藍は声を弾ませながら、自然に微笑む。
左近も穏やかに頷き、言葉はないが目で挨拶を返す。互いの距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。「今日はどこに行く?」
低く落ち着いた声に、藍は思わず息を整える。左近の声は、無言のときの重みとは違う、穏やかな響きを持って心に届く。
「公園を散歩したいです。桜は少し早いけれど、上野公園なら景色がきれいだと思って」藍の答えに、左近はわずかに目を細め、静かに頷く。言葉少なくとも、その一つの動作で了解を伝える。
二人は駅から歩き出す。上野公園へ向かう道すがら、藍は少しだけ照れくさそうに左近の横を歩く。自然と歩幅を合わせる彼の背中に、安心感と同時に甘い緊張が混じる。春の柔らかな日差しが二人の影を長く伸ばし、歩くリズムが心地よく揃う。
公園に着くと、朝の光が木々を通して地面に柔らかな影を落とす。人々が散歩やジョギングを楽しむ中、二人は静かな並木道を選び、ゆっくりと歩き出す。藍は手記や資料のことではなく、左近という存在に自然と心を向ける自分に気づく。
「……左近さん」藍はふと呼びかけた。左近は足を止め、少し首を傾げて彼女を見る。
「この一週間、ずっと考えていました……」藍の声は低く、しかし確かな決意が込められている。左近は無言で黙って聞く。
「私……父の刀のことも大事です。でも、それ以上に、左近さんと過ごす時間が、私にとってすごく大切で……」
藍の頬が熱を帯び、目が少し潤む。左近は微かに眉を緩め、視線を彼女の瞳に向ける。
「藍……」低く名前を呼ぶその声に、藍の胸は高鳴る。左近の瞳には、鍛冶場の威厳や工房での落ち着きとは違う、柔らかな光が宿っていた。
「……私、左近さんのこと、ずっと……好きでした。職人としてもですけど……その……」言葉が空気に溶ける。藍は息を整え、少し俯いてしまう。恥ずかしそうにしている。静かな公園の風が、桜の蕾を揺らす。
左近は静かに歩み寄り、藍の手をそっと取った。冷たくはない、適度な温かみを感じる手の感触。藍の体が一瞬震えるが、安心感と幸福が混じる。
「藍……私も、同じだよ。じゃあ、これからも伝統、残していこうか。」低く、しかし確かな声。藍は目を見開き、信じられないほどの安堵と喜びに胸を満たされる。左近の手は、緊張せずに自然と自分の手を包むように握られている。
二人はゆっくりと歩き出す。桜並木の下、手をつなぎ、言葉少なに心の奥の感情を共有する。互いの存在が、言葉以上に心を通わせることを知った瞬間だった。
歩道沿いのベンチに座り、時折目を合わせて笑う。人々の笑い声や子供の声が遠くに聞こえる中、二人だけの世界が静かに広がる。藍は左近の手を握ったまま、小さく笑みを浮かべる。左近もまた、手を緩めずに寄り添い、微かに視線を下ろして藍を見守る。
「これからも……一緒に、こうして過ごせますか?」藍は少し緊張しながら尋ねる。
「ああ……一緒に歩こう」左近の答えは簡潔だが、確かな温かみがあった。藍は頷き、手の温もりを強く感じる。公園の光が二人を包み、春の柔らかな風が桜の花を揺らす。
その日、上野の並木道で二人は初めて感情を言葉にし、手をつなぎ、自然な形で距離を縮めた。父の刀の探索という目的が二人を結びつけたが、今やそれ以上に、互いを大切に思う心が静かに芽生えたのだった。
夕暮れが差し込む公園を後にして、二人は手をつないだまま街を歩き、帰路につく。言葉は少なくとも、心は完全に通じ合っている。未来への不安も期待も、二人で共有することができる——そんな穏やかな夜が、上野の街に静かに広がった。




