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第七話第四章

 夕暮れが近づくころ、二人は神社を後にし、名物帳を手にしながら帰路についた。刀は未発見のままでも、藍の胸には温かさと安心感が残る。左近もまた、淡々とした動作の中で、藍と共有した時間を確かに感じていた。


 神社の境内を後にして、二人は静かな道を歩いていた。藍は手記の内容と、名物帳に記された来国俊の太刀のことを思い返していた。父の書き残した謎――なぜ酒気を帯びたような表現で刀の所在を示したのか、その意味を考えると、心の奥に小さな焦燥が芽生える。


「父の言葉は、やはり一筋縄ではいかない……」藍は小声で呟く。自分の心の中では、父の遺した刀を見つけることも重要だった。だが、それ以上に、今日一日左近と過ごした時間のほうが、心を満たしていることに気づいた。


 左近は黙って前を歩き、藍の言葉に耳を傾けることもなく、ただ淡々と足元の石畳を見据えている。無言だが、同じ時間を共にするだけで、藍には不思議な安心感があった。父の刀を追う緊張よりも、左近といるこの時間の方が大事だ――そう、自然に思えてくる。藍は少し息を吸い、左近の横に歩幅を合わせる。柔らかな朝の光が二人の影を長く伸ばし、静かな街路に映る。目の前の景色は穏やかだが、心の中では小さな決意が固まる。


 「左近さん……今日は、本当にありがとうございました」藍は静かに口を開き、思いを言葉にした。短く、しかし心の底からの感謝を込める。


 左近は振り返らず、淡々と答えることもないが、その無言のまま存在する姿が、藍の心にさらに温かさを与える。「父の手記も、江戸時代の名物帳も……見せてくれて、ありがとうございます。」


 藍は小さく頭を下げる。言葉だけでは十分ではないかもしれないが、それでも心を伝えずにはいられなかった。左近は目を細め、短くうなずく。


 藍はさらに付け加える。「もしよろしければ、次は私の工房にも来ていただけませんか。父の手記だけでなく、私の作業も見てもらいたいんです。」


 左近は一瞬手元の景色を見据えた後、ゆっくりと頷く。その動作は控えめで淡々としているが、藍には確かな意思が感じられた。言葉は少なくとも、その一つの頷きが、藍の期待に応えるものだと理解できた。


 藍は微かに笑みを浮かべ、少し赤くなった頬を気にしながらも、心の中では安堵と喜びが交錯していた。父の刀の謎を追うことも考えたが、左近と一緒にいることの方が今は大事――その思いは、彼女の胸を静かに満たしていた。


 「では……また、工房でお会いできるのを楽しみにしています。」藍は短く言うと、歩を進め始める。背中越しに左近の姿を見ながら、穏やかな気持ちで歩く自分を感じる。無言でも、共に過ごした時間が、確かな絆となっていることを実感していた。


 左近は少し遅れて歩き、藍が去っていく姿を見守る。その無表情の奥に、僅かな満足と、次に会うための計算された余白があった。淡々としているが、心の中では、藍との時間をまた繋ぎたいと思っている――その気配が、静かに漂う。


 藍は街路を抜け、カフェで飲んだ温かいコーヒーの余韻を思い返しながら、歩みを進める。父の刀はまだ見つからなかったが、左近と過ごした時間、共に探索した静かな時間こそが、今日の宝物だと思えた。


 夕暮れが差し込む街の角を曲がり、藍は工房へ戻る道を選ぶ。その背中には、今日一日の出来事と、左近との微かな距離の縮まりが刻まれていた。刀の所在は依然として謎のまま、しかし、二人の間には、言葉以上の理解と信頼が生まれたことを藍は確かに感じていた。


 そして、神社での探索が終わった後も、藍の心には静かな決意が残る。父の刀は追い続ける――だが今は、左近と共に過ごす時間もまた、追い続けるべきものだと。


 翌日、藍は工房の扉を開けた。左近との次の約束を胸に、静かに一歩を踏み入れる。父の遺した謎と、そして左近との新たな絆――二つの道が、ゆっくりと交わろうとしていた。


 ――――――その後の日――――――


 藍は工房の扉を開けると、そこには予想通り、左近が立っていた。藍の胸の奥に、小さな驚きと同時に温かさが広がる。


 「おはようございます、左近さん。」藍の声は少し弾んだ。左近は淡々と頷き、しかしいつもの落ち着きと威厳を感じさせる視線で藍を見た。


 「今日は、少し外に出かけるか。」左近の低い声に、藍は思わず顔を上げた。外出——それは単なる探索や作業ではなく、二人だけの時間を過ごす提案だった。


 藍は小さく微笑みながら準備を整え、左近と一緒に工房を出る。通りに出ると、朝の柔らかな光が二人の影を長く伸ばしていた。自然と歩幅を合わせ、無言のまま歩く時間が、心地よく胸を満たす。


 道すがら、左近は時折藍に目を向け、微かな動作で彼女の安全や歩調を確認する。藍もまた、そんな気配を感じながら、思わず頬を赤らめる。二人は言葉が少ないが、互いに存在を意識し、ゆっくりと距離を縮めていった。


 やがて小さな市場や古い街並みに差し掛かると、左近はふと立ち止まり、藍に向けて軽く微笑んだような気配を漂わせる。藍も微笑み返し、二人は自然に並んで歩き始めた。父の刀の探索だけでなく、互いの存在を感じながら過ごすこの時間が、二人にとってかけがえのないものになっていく——そんな、穏やかで静かな一日が始まろうとしていた。


 町の小道を進むと、古い商店街が現れる。朝市の活気が街に広がり、威勢のいい声や野菜の匂いが漂う。左近は藍の肩越しに視線をやり、自然に歩調を合わせてくれる。その仕草に、藍は思わず心が温かくなる。言葉は交わさなくても、存在だけで安心できる。


 「ここ、少し寄ってみますか?」藍が小さく声をかけると、左近はわずかに目を細め、ゆっくりと頷く。


 藍は嬉しさを胸に、市場の一角へと歩を進めた。乾物屋や小さな陶器の店が軒を連ね、古い町並みの匂いと色彩が二人を包む。藍は陶器の小皿を手に取り、左近に見せる。


 「この模様、父が好きそうです」


 藍の言葉に、左近は指先で皿の縁を軽く触れる。冷たく硬い金属の感触ではなく、温かく滑らかな陶器の質感に、左近の表情に微かな変化が生まれる。藍はそれに気づき、胸の奥で小さな喜びを感じる。


 市場を抜け、二人は神社へ向かう。古びた石段を上ると、朝の光が杉の木々の間を通り抜け、地面に斑模様の影を落とす。藍は手記を胸に抱えながら、左近の横を歩く。足元の苔や石の不均一さに気をつけつつ、左近はそっと藍に目配せをし、足元を確認していることを知らせる。その無言の気配に、藍は思わず頬を赤らめる。


 境内に入ると、清らかな空気が広がり、風に揺れる杉の葉が心地よい音を立てる。二人は石畳の上を歩きながら、ふと止まる。藍は手記を取り出し、左近に見せる。江戸時代の資料を解説する藍の声は柔らかく、熱を帯びる。左近は時折頷き、淡々とした視線でページを追う。言葉は少ないが、その姿勢が藍に信頼感を与える。


 「ここまで来られたのは、左近さんが一緒にいてくれたからです」藍が小さく言葉を漏らすと、左近は視線を藍に向け、短く頷いた。


 言葉は少なくとも、存在そのものが返事になっている。藍は微笑み、手記を片手に彼の隣を歩く。心地よい沈黙が、二人の距離をさらに縮めていく。


 神社を後にして、街道沿いの小さな喫茶店に立ち寄る。木製のテーブルに座り、藍は温かい紅茶を手に取る。左近はコーヒーを注文し、静かにカップを手にする。その仕草一つ一つが、普段の職人としての無言の力強さとは違い、柔らかさを帯びている。


 「ここ、静かで落ち着きますね」藍が小声で言うと、左近は少し目を細め、窓の外を眺める。視線は交わらないが、互いの存在を感じながら同じ空間を共有する心地よさがあった。藍は思わずカップを持つ手を少し握りしめ、微かな幸福を胸に抱く。


 外に出ると、夕暮れの光が町並みを柔らかく染めていた。二人は歩幅を自然に合わせ、ゆっくりと帰路につく。街のざわめきや人々の声は遠く、二人だけの時間が続く。藍は左近の後ろ姿を何度も振り返り、ふと手が触れた瞬間、自然に微笑む。左近もその距離感を意識し、無言で腕を少し引いて、藍の歩調に寄り添う。


 夜の町に差し掛かると、藍は空を見上げ、淡い月明かりを感じる。左近も同じように顔を上げ、目の端で藍の表情を確認する。その一瞬、互いの気配が言葉以上に心を通わせる。藍は心の中で、父の刀の探索だけでなく、左近と過ごすこの静かな時間の価値を噛みしめる。工房に戻る頃、藍の胸には温かさと安心感が広がっていた。左近もまた、無言のまま歩く中で、藍との距離の変化を確かに感じていた。刀の所在はまだ謎のままでも、二人の間に生まれた理解と信頼は確かで、これから先の時間を共に歩むための大切な基盤となっていた。


 その夜、藍は工房の窓から差し込む月光を眺めながら、静かに微笑む。父の手記を追う旅はまだ続く。だが今は、左近と共有した穏やかで確かな時間が、藍の心を満たしていた。二人の距離はゆっくりと交わり、少しずつ、しかし確実に、互いの存在が恋の予感として胸に宿っていった。

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