第七話第三章
左近は立ち上がらず、淡々と手を伸ばして軽く頭を下げる。表情には変わらず揺るぎがないが、スーツ姿の整った佇まいは、藍の心を不意に揺さぶるには十分だった。藍は深く息を吸い、何とか落ち着かせるように努める。
「……今日は、刀の話をしましょう」左近は低く、しかし確実にそう告げる。藍はまだ顔を赤くしたまま、頷くしかなかった。心の中では、鍛冶場の荒々しい姿と、このスーツ姿の落ち着いた左近のギャップに翻弄されつつも、父の手記の話に集中しようと自分を励ますのだった。
カフェの窓際のテーブルに二人は向かい合ったまま座っていた。柔らかな朝の光がテーブルの上に影を落とす。藍は少し緊張しながらも、手記のことを切り出した。
「父の手記に書かれていた刀の場所……やっぱり正確みたいです。鍛冶場のすぐ近くにある、古い神社の裏庭に隠されているって」
左近は軽くうなずき、手元のコーヒーカップに目を落とす。その動きは静かで、何の飾りもない。しかし、その静けさの中に、確かな重みがあった。
「父上の言葉には、意味があったということか」低く、淡々とした声だった。藍は頷き、目の前の人物が鍛冶場の仙人のような左近であったことを一瞬忘れ、今目の前にいるのはスーツ姿の落ち着いた大人だと改めて認識した。
「はい。私も最初は半信半疑でした。でも、文章を何度も読み返すうちに、やはり真剣に探すべきだと……」
左近は視線を上げ、藍の表情を見た。微かに目を細め、問いかけるように静かに言った。
「で、藍さんはその刀を手にしたら、どうするつもりだ?」
藍は少し戸惑いながらも答える。「もちろん……父の遺したものです。大事に守り、必要であれば研ぎ、保存します。決して勝手に使うつもりはありません」
左近は小さく頷き、視線を再びカップに戻した。少しの間、沈黙が流れる。静かなカフェの中、外の人々の話し声は届くが、二人の世界は窓の外とは別の時間を刻んでいるかのようだった。
藍は沈黙を破るように、少し声を弾ませて話題を変えた。「……そういえば、左近さんは鍛冶職人として選ばれる前、どんな経歴だったんですか?」
左近は一瞬、目を細めて微かに口角を上げた。話すことは滅多にないが、今日は淡々と答える気のようだった。
「鍛冶職人としての道は、父の元での修行から始まった。最初は見習いとして、火床を管理し、鋼の加熱を学んだ。道具の手入れ、火床の火加減……基礎の基礎だ」
藍は目を輝かせ、興味深そうに聞き入る。「見習いの頃から、ずっと父上に鍛錬を見てもらったんですか?」
「そうだ。父は厳しかった。だが、必要以上に口を出さず、仕事の意味を自分で理解させるタイプだった」左近の声には淡々とした語り口があるが、藍にはその背景に努力と忍耐が感じられた。
藍は少し微笑む。「だから、あの鍛冶場での集中した姿になるんですね。無言で、でも刀と向き合う……」
左近は僅かに肩を動かし、軽く笑ったような気配を漂わせた。「職人としては、当然のことだ。ただ、全てを言葉で説明する必要はない」
藍はその言葉にうなずきながら、ふと世間話のような口調で聞いてみる。「最近の鍛冶職人の世界はどうですか?世間の注目も集まることが増えたんじゃないですか」
左近はゆっくりと視線を外に向け、通りを歩く人々を見た。
「世間の注目か……それはどうでもいいことだ。刀を鍛えることに意味がある。それ以外の評価や噂には、関心は薄い」
藍は微笑みながら、その言葉の力強さに感心した。
「でも、無関心ではないですよね。選ばれた無鑑査刀匠としての責任感とか。」
左近はゆっくり頷き、再びカップを手に取る。
「責任感はある。ただ、外の評価ではなく、自分の技術と刀の状態に責任を持つだけだ。」
藍は静かにうなずき、深く息を吸った。カフェの中の会話は、父の手記の話だけでなく、二人の間に自然な距離を縮めるような空気を作っていた。左近の経歴や価値観、鍛冶師としての哲学――それらは淡々と語られるが、藍には確かな安心感を与えた。
その後も、二人はしばらくの間、刀のこと、手記の内容、そして職人としての心構えや日常の些細な話題を交わした。外の喧騒とは別の時間が、静かにカフェの中に流れる。藍は父の手記のことだけでなく、左近という人物の全体像を初めて感じ、心の中で少しずつ信頼を積み重ねていくのを感じた。
窓の外に差し込む光は柔らかく、カップのコーヒーはまだ熱を保っている。二人の会話は決して派手ではないが、確実に父の刀を探すための共通の目的を中心に、着実に進んでいった。
――――――翌朝―――早朝――――――
二人は静かな神社の境内に足を踏み入れた。鳥居をくぐると、朝の光が杉の木々の間を通り抜け、地面に斑模様の影を落としている。藍は手記の頁を指で押さえながら、左近と一緒に歩く。道は苔むしており、長い年月の静寂を感じさせる。
「ここ……父の手記に書かれていた場所ですか?」
藍の声は控えめだが、心の奥には高揚があった。左近は無言で頷き、視線を地面と周囲の構造に走らせる。職人としての観察眼は、すでに刀を探す手がかりを頭の中で整理している。
神社の裏手に進むと、小さな土塁と古い倉庫の跡があった。藍は手記に書かれた描写を指差しながら、
「ここだと思います……でも、やはり土の下でしょうか…」
左近は短く答える。「可能性は高い。だが、すぐには見つからないかもしれない。」
二人は慎重に土を掘り返したり、苔に覆われた石の間を探したりした。数十分が過ぎ、藍の心は徐々に焦燥に変わる。刀を見つけられない不安と、父の手記の正確さへの疑念が頭をもたげる。
そのとき、藍の手が石の隙間に何か固いものを触れた。慎重に取り出してみると、薄く焼けた和紙の束だった。藍は驚きと期待を交え、左近に見せる。
「……これは?」左近は手元に受け取り、紙の表面をそっとなぞる。墨で書かれた文字は、江戸時代に記された書類のように見えた。藍がページをめくると、「元文名物帳」と記されている。藍の目は大きく見開かれる。
「江戸時代……享保の頃の名物帳ですか。ここに刀の記録が?」左近は淡々と頷き、紙面を指で押さえる。墨文字は丁寧で、しかし時間の経過を感じさせる色褪せ方をしていた。
藍はさらにページをめくると、一振りの太刀の名前が目に入った。「……来国俊……太刀……発見されていない……」
文字通り、その刀の所在は不明のままで、名物帳に記された記録しか残っていなかった。藍は息をつき、しかしその目は興奮に光る。歴史の謎に触れた瞬間だった。
左近もページを見つめ、短く言った。
「発見されていない刀か。確かに謎のままだ」
藍は感慨深くうなずく。手記に書かれた父の期待は、ここで江戸時代の資料に繋がることを示していたのだ。刀そのものは見つからなかったが、歴史の断片が手に入ったことに意味があった。
「父の手記は、私にこの発見をさせるためのものだったんですね……」
藍の声は低く、しかし希望が混じる。左近は再び黙って頷く。
二人はしばらくその名物帳を読み続けた。来国俊の太刀に関する記述は短く、しかし江戸時代の文献としては正確であることがわかる。どこに隠されたのか、どうして発見されなかったのか、すべては謎のままだ。
神社の裏手で、二人は名物帳を見つめながら膝をつき、土や苔の間に散らばった紙片を整理していた。朝の光が差し込み、杉の木々が影を落とす静かな空間。藍は手記に書かれた内容を左近に説明し、左近は淡々と聞きながらも時折短い相槌を打つ。
「こうして二人で確認すると、なんだか……安心します」藍の声は少し柔らかくなる。独りで旅館にいる間に感じていた焦燥は、左近と一緒に探索することで少しずつ和らいでいた。
左近は無言で頷き、藍の横に置いた手袋を拾って軽く整える。その動作の丁寧さに、藍は一瞬心が温かくなるのを感じた。職人としての細やかな所作が、普段の無言の威厳とは違う、親近感を与えていた。
「私、あの手記がなければここまで来られなかったと思います。」藍は呟き、左近を見上げた。初めて、少し距離を縮めて目を合わせられる気がした。左近は淡々と視線を受け止め、言葉は返さないが、その存在が藍に安心感を与える。
やがて、名物帳を一緒に確認し終えると、藍はふと土の上に座ったまま微笑む。
「この探索、二人で来てよかったです」
左近は短く「そうだな」と応じ、微かに肩を緩めた。藍は心の奥で、無言のやり取りだけで十分に意思が通じることに気づく。
その後、倒れた木の枝や苔を避けながら二人は一緒に歩き、時折作業の確認を交わす。左近は刀の鋼や名物帳の保存状態を淡々と解説し、藍はそれに耳を傾け、感想を述べる。言葉少なでも、互いの動きや気配から信頼が育まれていくのがわかる。
昼が近づき、神社の境内で休憩を取る頃には、藍は自然と左近の隣に座り、無言の時間を楽しむことができるようになっていた。静かな呼吸、微かに揺れる木々の葉、そしてお互いの存在。それだけで安心できる距離になっていた。
藍は思う。父の刀はまだ見つかっていない。でも、この探索を通して、左近との距離が確かに縮まった。無言でも、淡々とした作業の中で互いを理解し、信頼することができる関係――それが何よりも大切なのだと。




