第六話最終章
7月下旬、全国から集まった陸上部員たちが一堂に会するインターハイの会場。久瀬香澄は、真剣な眼差しでスタートラインに立っていた。練習の成果をすべて出すため、呼吸を整え、集中する。黒川透帥のことは頭の片隅にあったが、今はレースに全神経を集中させていた。
「…行くぞ」
合図とともにスタートが切られ、香澄は長い脚を力強く蹴り出す。風を切る感覚、周囲の観客の声援、競り合うライバルたち。すべてが混ざり合い、ただ前に進むことだけが頭の中にあった。ゴールラインが近づくと、最後の力を振り絞り、全力で駆け抜ける。
レースが終わると、疲労と達成感が一気に体に押し寄せた。控え室で少し呼吸を整えながら、香澄はスマートフォンを取り出す。そこには黒川からの「お疲れ、久瀬さん」とだけ書かれたメッセージがあった。香澄は小さく笑みを浮かべ、返信を打つ。「終わった、無事に戻ったよ。話したいことがある」
夕方、香澄は自宅に戻ると、玄関のドアを開ける前に少し深呼吸をした。褐色の肌は日差しと練習の疲れで少し赤みを帯び、汗の匂いがほんのり漂うが、それも彼女らしい色気の一部に思える。ドアを開けると、黒川はソファに座り、何気ない表情で香澄を迎えた。
「久瀬さん、無事に戻ったか」
黒川の声はいつも通り穏やかで優しく、香澄はほっとする。靴を脱ぎ、部屋に入ると、二人は自然と向かい合って座った。香澄は少し息を整えながら、手元にあるタオルで軽く顔を拭う。
「レース、無事に終わった…でも、思ったよりも緊張した。透帥、応援の言葉、届いてたよ」
黒川は微かに笑みを浮かべ、軽く頷く。「そうか、久瀬さんが自分の力を出せたなら、それで十分だ」
香澄は少し俯きながらも、目を細めて小さく笑う。「でも…やっぱり、もっと速く走れたら、って思っちゃう」
黒川は肩の力を抜き、少し距離を縮めて座る。「久瀬さん、焦らなくていい。今日の走りで、十分に力を見せてるんだから。俺は知ってる、君がどれだけ努力してきたか」
香澄はその言葉に少し頬を赤らめ、照れくさそうに笑った。「透帥…ありがとう」
二人はしばらく、何気ない会話を交わす。黒川は淡々としているが、香澄の話を聞きながら微妙に目線を合わせ、時折笑みを浮かべる。その笑みが香澄に安心感を与え、自然と肩の力が抜ける。
「でも、やっぱり、あの瞬間は緊張したな…」香澄は手を膝の上で組み、小さくため息をつく。「透帥が応援してくれてたのに、ちゃんと力にできなかった気がする」
黒川は首をかしげ、優しい口調で答える。「久瀬さん、そういう気持ちになるのは当然だ。でも、俺は君が全力を出したことを知ってる。それで十分なんだ」
香澄は少し安心したように笑い、肩の力を抜く。「うん…そうだね。透帥がそう言ってくれると、少し落ち着く」
その後、二人はソファで並んで座り、互いの話を少しずつ共有していった。香澄はインターハイでの緊張やレース中の思いを語り、黒川は時折相槌を打ち、言葉少なでも確かに心を通わせる。夏の日差しが部屋を温め、微かな風がカーテンを揺らす中、二人の距離は静かに、しかし確実に近づいていった。
夕暮れ時、香澄は立ち上がり、少し照れくさそうに言う。「透帥、これからも、応援してくれる?」
黒川は微かに微笑み、優しく答える。「もちろんだよ、久瀬さん。俺は君の走りも、君自身も、ずっと見ていたい」
香澄は頬を赤くしながら小さく頷き、二人は自然に笑みを交わす。その日の空気の中で、レースの疲れも緊張も、二人の間に穏やかな絆と安心感を残していた。
9月中旬、夏の暑さもやわらぎ、魚沼の空気は清々しく心地よい。透帥と香澄は、学校の帰り道にあるお気に入りの坂道に差し掛かっていた。長かった夏休みが終わり、授業も始まったが、二人の関係は変わらず穏やかで自然だった。
「久瀬、今日も一緒に登るか?」
透帥の声はいつも通り穏やかで、香澄は少し照れくさそうに笑いながら頷く。「うん、透帥と一緒なら、楽しい」
二人は手をつなぎ、ゆっくりと坂道を登り始める。透帥の小さな手と、長身で力強い香澄の手が触れ合う感触が、自然と安心感を与える。空気は涼しく、秋の気配がほんのり漂い、周囲の田畑や山々が静かに二人を見守っているようだった。
「夏休みは練習で大変だったな」透帥がさりげなく言うと、香澄は頷き、少し笑みを浮かべた。「うん…でも、透帥と一緒に坂道を走ったり、掃除をしたり…そのおかげで頑張れた」
透帥は軽く微笑み、視線を坂道の先に向けながら答える。「俺も、久瀬と一緒だから楽しかった。無理せず、自然に近くで見ていられたのが良かった」
坂の頂上に着くと、二人は少し息を切らしながら立ち止まる。手はまだつないだまま、肩越しにお互いを感じる距離で、風が髪を揺らす。香澄はふっと笑い、透帥の手を少し握り直す。
「じゃあ、下りも一緒に行こうか」透帥が軽く提案すると、香澄は嬉しそうに頷く。二人はそろって坂を駆け下りる。長い足で軽やかに下る香澄と、俊敏に体を動かす透帥が並ぶ姿は、互いの呼吸やリズムがぴったり合っていることを感じさせる。
坂の下に到着すると、二人は笑いながら立ち止まり、手を握り合ったまましばらく見つめ合う。秋風が二人の頬をなで、魚沼の静かな景色に二人の笑い声が溶け込む。言葉は少なくても、互いの存在が心地よく、安心感と微かなドキドキを与えていた。
夕陽に照らされた坂道を背景に、透帥と香澄は手をつなぎ、また自然な笑顔を交わす。夏を越えた二人の距離は、変わらず確かなもので、これからも一緒に歩いていくことを、静かに実感する時間なのであった。




