第六話第三章
休日の翌朝、祖父母の家の小さな和室で目を覚ました香澄は、まだ少し恥ずかしさを抱えながら隣を見る。黒川は半分目を閉じ、淡々と布団の中で伸びをしていた。
「…おはようございます」香澄の小さな声に、黒川はちらりと目を向け、わずかに微笑む。
「おはよう。よく眠れた?」香澄は頷き、髪を整えながら少し俯く。言葉は少ないが、互いの存在を意識しながら布団を出る動作も、どこかぎこちなく、しかし自然と息が合う。
朝食を囲む祖父母の前では普通の会話だが、二人の間には微妙な距離感と気配が漂う。
帰りのバスに乗ると、香澄は少し緊張しながら黒川の隣に座る。無言の時間が長く続くが、窓の外の景色と互いの呼吸を意識することで、自然と心の距離が縮まる。黒川は小柄な体で香澄の隣に座りつつ、微妙に距離を保ちながらも、無言の中で互いを確かめ合う。
電車と徒歩で香澄の家まで送ると、彼女は照れくさそうに「ありがとうございました」と小声で言う。黒川は淡々と返すが、内心では微かな優越感と、休日の一夜でさらに近づいた心の距離に満足していた。
夏休みのある日、香澄は陸上部の練習のため、少し早めに学校へ向かっていた。普段は無口で淡々としている自分だが、今日はなぜか足取りが少し緊張していた。心のどこかで、黒川のことを意識している自分に気づき、頬が少し熱くなる。駅からの道を歩きながら、無意識に黒川の通学路や学校の様子を思い浮かべていた。
「…いけない、考えすぎかな」
香澄は自分に言い聞かせるように小さく呟き、深呼吸して練習着の袖を整えた。しかし、黒川が学校にいる時間帯を計算して行動してしまうあたり、やはり無意識ではなく心の奥で期待しているのかもしれない。その時、黒川は校舎内で用事を済ませ、掲示板の前で書類を確認していた。ふと視線を上げると、校庭への通路に香澄の姿が見える。練習着姿で汗を軽く拭いながら歩く彼女は、いつもより少し緊張した面持ちで、周囲を気にしているようにも見えた。
「…あ、久瀬さんか」黒川は小さく声をかけると、香澄は驚いて立ち止まり、少し目を伏せる。
「あ、あの…黒川くん」
二人の距離は自然と近くなる。香澄は心臓が早く打っているのを感じつつ、どうしても視線を黒川に向けてしまう自分に気づく。黒川は淡々とした態度を崩さず、しかし内心で微かに嬉しさを感じ、無言の時間の中で香澄の動揺や照れを観察していた。夏の光が校舎の窓に反射し、二人の影が地面に長く伸びる。言葉少なでも、互いの存在を確かめ合う微妙な距離感が、朝の校舎にひっそりと漂っていた。香澄は無意識に、しかし確実に黒川の存在を意識し、黒川は狡猾にその心の動きを読み取りつつ、少しずつ距離を縮めるタイミングを計っていた。
練習を終えた香澄は、汗で濡れた髪を軽く拭いながら、少し緊張した表情で黒川の方を見る。黒川は水筒を片手に歩きながら、軽く微笑んだ。
「久瀬さん、疲れたでしょ?無理せずゆっくりでいいよ。」香澄は頷き、自然と彼の隣に並ぶ。普段は無口な自分が、なぜか少し安心して話しかけられるのは、黒川の声が優しく、押し付けがましくないからだと気づく。
「…黒川くん、今日も…見ててくれて、ありがとう」
黒川は肩の力を抜き、柔らかい笑みを浮かべる。「うん、久瀬さんが一生懸命なのはちゃんとわかってる。俺も、少しは役に立ててるかな?」
香澄は目を伏せながら小さく頷き、歩幅を自然に合わせる。無言の時間も心地よく、互いの呼吸や足音がリズムを作る。小柄な黒川と長身の香澄、無口と優しさが微妙に絡み合い、歩きながらも距離感が縮まっていく。
途中、香澄がふと息を切らせて坂道に差し掛かると、黒川は軽く肩をすくめながらも、少しだけ先を歩いて振り返った。
「久瀬さん、無理しなくていい。ゆっくりで大丈夫だ」
香澄は頬を赤くしながらも、黒川の声に励まされ、少し笑みを浮かべて歩き続ける。夏の光に照らされながら、二人は言葉少なでも自然と心を通わせ、微妙な距離感が確かに近づいていた。
坂道に差し掛かると、香澄はふと足を止め、黒川を見上げて小さく笑った。
「…黒川くん、ここ、ちょっと競争してみる?」
黒川は驚いた顔を一瞬見せるが、すぐに柔らかく微笑む。「お、久瀬さんが勝負を挑むのか。いいけど、無理はしないでな」
香澄は頷き、軽く息を整えて構える。長い足を生かして、軽やかに坂を駆け上がろうとする姿は、練習で鍛えられた力強さを感じさせる。小柄な黒川は一瞬考えるように目を細め、すぐに笑みを浮かべながら彼女に並ぶ。
「よし、じゃあ行こうか。」
二人は息を合わせるように坂を駆け出す。香澄の長い脚がリズムよく地面を蹴り、黒川は小柄ながらも俊敏な動きで並走する。風が二人の髪や顔に当たり、無言の中で互いの呼吸や距離を意識する。
坂の中腹で香澄は少し息を切らせ、笑いながら振り返る。「黒川くん、意外と速い…」
黒川も笑みを返す。「久瀬さんだって十分速いよ。さすが陸上部」
言葉少なでも、坂道を一緒に駆けることで、二人の間には軽やかな緊張と楽しさが生まれ、微妙なドキドキが確実に心の奥に積み重なっていった。
坂の下に二人は息を切らせながら到着した。香澄は両手で膝を押さえ、荒い息を整える。黒川も小柄な体を屈めつつ深く息を吸い込み、横で並ぶ香澄をちらりと見た。長い髪が汗で額に張りつき、頬が赤く染まっている。
「…久瀬さん、平気か?」
黒川の声は優しく、心配しながらも笑みを浮かべていた。香澄は肩越しにちらりと目を上げ、恥ずかしそうに小さく息をつく。
「う、うん…大丈夫。黒川くん、速いね…でも、楽しかった…」
その言葉に黒川は軽く笑みを返し、少し距離を縮めて並ぶ。坂道を一緒に駆け下りることで、自然と二人の距離は近く、心臓が微かに早く打っているのを香澄も感じていた。
「…あの、黒川くん」
香澄は一歩踏み出し、視線を少し落としながら言葉を絞り出す。「私、ずっと…黒川くんのこと、意識してた。家のこともあって、あまり人に頼れなくて…でも、黒川くんとは一緒にいると、自然に安心できて…」
黒川は少し驚きながらも、落ち着いた優しい声で答える。「久瀬さん…そう思ってくれてたんだな」
香澄は小さく頷き、頬をさらに赤くしながら目を伏せる。「…私、黒川くんのことが…好きです」
坂の下の夕陽に照らされ、二人の影が重なる中、黒川は自然に手を差し伸べる。「…俺もだ、久瀬香澄」
香澄は少し驚いた顔をした後、ゆっくりと手を取る。互いの手の温かさを感じながら、二人の心は静かに、しかし確かに近づいた。
それから二人は、自然に名前で呼び合うようになった。黒川は「香澄」、香澄は「透帥」と。放課後や坂道、掃除の時間、無言のままでも、互いの存在を意識しながら名前を呼び、笑い合う。
家の事情で孤独を感じていた香澄も、黒川といることで安心できる日々を得た。黒川もまた、狡猾さや計算だけでなく、香澄の真っ直ぐさと不器用な優しさに惹かれ、自然と心を開いていった。




