第六話第一章
誰にでも嫌なことがある。嫌だと感じることすべてを拒否したくなる。嫌だということが永遠に追いかけてくるような人生はどん底と言うべきもの。ただそこに嫌というものを活かして良いものにしてしまえば、どん底よりまし。それ以上にスッキリする楽しさを実感するかもしれない。
ある日の6限目、それぞれが入る委員会を決める時間になった。黒川透帥は、あまり面倒な委員会には入りたくなかった。狡猾に空気を読みつつも、あえて手を挙げず、結果的に残ったのは一番地味で面倒くさい清掃委員会だった。活動内容は、放課後の教室を掃除すること。ペアになったのは久瀬香澄だ。
香澄は高身長で178cmもあるが、目立たず静かに過ごすタイプ。放課後の教室で、彼女は黙々と掃除用具を片付けていた。放課後の教室は、すでに静寂が支配していた。黒川透帥は膝を曲げ、黒板下の細かな汚れを丹念に拭き取る。小柄な体を屈めながらも、手先の器用さで掃除の効率は悪くなかった。しかし、上部に残る埃はどうしても届かず、眉をひそめる。
「…やっぱり無理か。」呟く黒川を尻目に、久瀬香澄は無言で立ち上がり、長い腕を伸ばして黒板の上部をさらりと拭き取った。その動作はまるで自然の一部のようで、力強く、かつ無駄がない。黒川は内心で、改めて香澄の長身と腕力を計算していた。
「…助かる。」淡々と口にするが、黒川の目は香澄の動きにしっかりと釘付けだ。夕陽の光が窓から差し込み、香澄の背を長く伸ばす影が黒川にかかる。普段ならあまり意識しない感覚だが、今日は妙に心地よく、少しだけ心が緩む。
香澄はリュックを片付けながら、黒川の小柄さを改めて気にしているようだった。
「…リュック、重い?持てる?」無口な香澄が緊張したように問いかける声に、黒川は一瞬疑念を抱く。しかし、すぐに切り替えた。
「いや、別に。ただ…。」少し冗談めかして答えると、香澄は慌てて手を振る。
「違う!嫌味じゃない…ただ、力があるから、手伝えると思って。」
黒川は小さく頷き、リュックを香澄に渡す。肩紐がずれるたびに、白い肌がちらりと見える。内心、黒川は次の行動を冷静に見ながらも、香澄の柔らかさに自然と目が留まる自分を認めざるを得なかった。
掃除の作業が続く中、二人は特に言葉を交わすことはなかった。だが、黒川がほうきで床を掃くタイミングに合わせ、香澄も雑巾を持つ手を動かす。その息の合った動作に、二人は互いに目を合わせることなく、密かな信頼感が生まれていた。
「黒川くん、机の下、埃たくさん…。」
普段なら言わなさそうな香澄の声に、黒川は思わず笑みを浮かべる。無口な彼女が、自分にだけ小さく言葉をかけてくれることの奇妙な特別感。
「了解、任せろ」短く答える黒川の声に、香澄は少し頬を赤らめる。そして再び黙々と作業を続けるが、手際よく動く姿は以前よりも自然で、どこか楽しげに見えた。
黒川はふと、香澄が腕を伸ばすたびに力強さだけでなく、柔らかさも感じることに気づいた。小柄な自分との身長差が、まるで安心感と守られている感覚を同時に与えてくれる。
「明日も…掃除だよね。」
香澄が小さな声で言った。黒川は作業を止めずに、自然に返す。
「ああ、また一緒だな。」
香澄は軽く頷き、再び作業に戻る。黒川は無理に会話を続けることはせず、ただ彼女の手元を見守りながら、思う。声少ない彼女が、こうして自分に少しずつ心を開いている。床に落ちた紙屑を拾う黒川の手と、棚の埃を払う香澄の手が、まるで呼吸を合わせるように動く。小柄な体と力強い体、無口な少女と狡猾な少年。その微妙な対比が、掃除という単調な作業に不思議な緊張感と安心感を与えていた。
黒川は小さく息をつき、心の中で次の計画を練りながらも、今この時間が不思議と心地よいことを認める。香澄もまた、無言のまま、少しずつ黒川との距離を縮めていく。言葉がなくても、二人の間に生まれた信頼と微妙な感情が、確かに確実に育っていくのを感じていた。廊下に夕陽が差し込み、教室の隅々まで光が届く中、黒川と香澄の静かで不思議なペア作業は、ゆっくりと二人の心の距離を近づけていった。
掃除を終えた二人は、香澄の方から下駄箱まで歩きながら、少し照れくさそうに距離を詰めた。
「…帰るの、一緒にどう?」普段は無口な声に、黒川は一瞬目を見開く。
しかしすぐに淡々と頷く。「ああ、いいけど」
下駄箱で靴を履き替え、肩越しに並んで歩き出す。香澄は髪を軽く直し、長い腕をゆっくり振る。小柄な黒川はその動きのひとつひとつを観察し、力強さと柔らかさの両方を計算しながら、心のどこかで少しだけ心を弛めていた。校門を抜け、夕陽に染まる畦道へ。その隣で黒川は、無言でも香澄の存在感に守られている感覚を覚え、逆に自分の小柄さが安心感を引き立てることに気づく。
二人は互いに言葉を交わさず、歩幅を自然に合わせながら進む。沈黙は不自然でなく、むしろお互いの呼吸や歩くリズムを確かめ合う時間になっていた。黒川は内心で、香澄が少しずつ心を開いていることを感じ、香澄もまた、無口ながらも黒川の存在を信頼している自分に気づく。
夕陽が畦道の先まで差し込み、長い影が二人を包む中、静かに歩くその時間は、言葉以上に心の距離を縮めていた。
香澄が小さく声を絞り出した。「…今日は、ありがとう。」
黒川は一瞬驚き、すぐに淡々と返す。「いや、こちらこそ。」
沈黙が戻る中、風が稲穂を揺らし、香澄の髪が光を受けて揺れるたび、黒川は自然に目を奪われる。小柄な自分と力強い香澄との身長差を改めて感じ、心の中で計算しつつも、どこか穏やかな気持ちになっていた。香澄も無言ながら、歩幅を合わせる黒川の存在に安心感を覚え、ほんの少し肩を緊張から解く。夕陽に染まる二人の影が並んで伸び、互いに意識せずとも距離が近いことを感じる。
「明日も…一緒だね」
黒川は微かに笑みを浮かべ、内心で嬉しさが出てくる。香澄の頬は赤く、言葉少なでも互いの存在を確かめる静かな時間が、ゆっくりと心の距離を縮めていた。
――――――翌日――――――
清掃当番の教室で黒川はいつものように床を拭き、香澄は黙々と雑巾を絞っていた。しばらく沈黙が続き、黒川が上棚の埃を払おうと手を伸ばしたとき、ぽつりと声を出した。
黒川は雑巾を片手に香澄の方をちらりと見る。無口で真面目な彼女が、昨日の帰り道を密かに見ていたと聞き、計算高くも優しく微笑んだ。
「昨日私をつけて、楽しんでたんだろ?」
香澄は一瞬顔を上げ、目を丸くする。頬がすぐに赤くなるのを、黒川はしっかり目に留めた。
「え…ち、違う、別に…」
黒川は小さく笑い、少し身を乗り出して、さもからかうように言う。「そうか?確かめるために坂道まで走ったんだろ。体力測定も兼ねて、なんてな。」
香澄は言葉に詰まり、目線を床に落とす。無言で雑巾を絞る手に力が入り、微かに震えているのがわかる。黒川はその様子を楽しみつつ、心の中で次の一手を考えた。
「ふふ、無口な君でも、ちょっとは勇気あるんだな。」
香澄は小さく息をつき、少し俯きながらも、わずかに口角を上げる。言葉少なでも、黒川との心理戦が楽しいのかもしれない。
二人の間に微妙な沈黙が流れる。無言でも、互いの存在を意識せずにはいられない時間。黒川の小柄さと香澄の力強さ、沈黙の中の呼吸、そして微妙な距離感が、教室に不思議なドキドキを生み出していた。
掃除後、二人は下校のために校門を出た。香澄は少し笑みを浮かべ、突然言った。
「…坂道、走らない?」
黒川は一瞬目を見開くが、香澄の真剣な目を見て頷く。
「まぁ、いいけど」
香澄が小さく息を整え、軽やかに坂を駆け上がる。黒川も負けじと足を動かし、彼女のペースに合わせて走る。長い足と力強い腕が自然にリズムを作り、小柄な黒川は必死に追いかけながらも、そのスピード感に心が弾む。
風を切る音と、互いの息遣い。言葉はなくても、二人の心は確かに触れ合っている。香澄は振り返り、笑みを浮かべながら小さく手を伸ばす。
「ほら、一緒に」黒川は笑みを返し、全力で並走する。坂道の先に沈む夕陽が二人を照らし、無言ながらも確かな連帯感と微妙なドキドキが胸に広がった。
坂の頂上で二人は並んで立ち止まり、肩で荒い息を整える。香澄の頬は赤く、長い髪が汗に揺れる。黒川は小柄な体を屈めながらも、その力強い存在感を改めて意識する。
「…疲れた」
香澄が小さく笑いながら呟くと、黒川も笑みを返す。無言の時間でも、互いの呼吸や体温、存在感を肌で感じ、自然と肩の距離が縮まる。沈黙が心地よく、二人は言葉以上に心を通わせていた。夕陽に照らされた二人の影が重なり、微妙なドキドキが確かなものになっていく。
―――――――――




