第五話最終章
数日後。私は近所の喫茶店に向かった。小さなガラス張りの扉を開けると、窓際の席に涼子が座っていた。白衣ではなく、淡いブルーのワンピース姿。病院で見る彼女よりも少し大人びていて、どこか新鮮だった。
「お待たせしました。」
「いえ、私も今来たところです。」
そう言って笑う涼子の姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。私たちはコーヒーを注文した。大きなガラス窓から午後の陽光が差し込み、喫茶店の中はやわらかな光に満たされていた。カップに注がれたコーヒーの湯気がゆらゆらと立ちのぼり、ほのかに苦い香りが漂う。窓の外では買い物帰りの親子や、犬を散歩させる人がのんびりと行き交っていた。
「そういえば、あの時の田所さんたちの喧嘩、百田さんの提案がなかったら収まらなかったですよ。」涼子が笑いながらストローを指でくるくる回す。その表情は、病院で見せる看護師の顔ではなく、年相応の女性の柔らかさに満ちていた。
「いやぁ、あれは編集部で鍛えられた調整力ですよ。原稿より人間関係の方が難しいんですけどね。」私が冗談めかして言うと、涼子は声を立てて笑った。その笑い声が、静かな店内に小さな音楽のように響いた。
話題は自然に趣味のことへと移った。
「休みの日は何をされるんですか?」
「最近は読書が多いですけど……意外かもしれませんが、昔からピアノを弾くんです」
「へえ! 本を読むだけじゃなくて音楽もできるなんて。じゃあ次は私が演奏を聴かせてもらう番ですね」
彼女は目を輝かせて言う。私は頬をかきながら、窓越しに通りを見やった。まさか入院中に知り合った看護師と、こんな会話をする日が来るとは思ってもいなかった。
さらに、子どもの頃の話になった。
「子どもの頃は本ばかり読んで、外で遊ぶのが苦手でした」
「私は逆に外でばかり遊んでました。毎日のように木登りして、足に擦り傷だらけ。母にいつも怒られてましたよ。無くしモノも多かったですし。」
その場面を思い出したのか、涼子はおかしそうに肩を揺らした。窓の外を風が渡り、落ち葉が舞う。その一瞬、彼女の笑顔と柔らかな光が重なって見えた。気がつけばカップは空になり、外の空は夕暮れの色を帯びていた。二人で過ごした時間は数時間にも及んでいたが、まるで一瞬のように感じられた。
それから、私たちは定期的に会うようになった。喫茶店、公園、美術館……涼子は多忙な勤務の合間を縫って時間を作ってくれた。
ある秋の日、落ち葉の舞う公園を歩いていた時のこと。私は松葉杖を手放し、少しぎこちない足取りで歩いていた。そんな私の横で、涼子が気遣うように歩調を合わせてくれる。
「無理していませんか?」
「大丈夫ですよ。むしろ、こうして一緒に歩けるのが嬉しいんです」
口にしてから、思わず赤面した。だが涼子は笑って、私の手にそっと自分の手を重ねた。その柔らかな温もりに、私は言葉を失った。
入院中は「患者と看護師」という枠に守られていた。だが、今はただ一人の男性と女性として、互いの存在を確かめ合っている。そんな実感が心を満たした。
交際を始めて一年が過ぎた頃。私は出版社での仕事に完全復帰していたが、生活の中心には常に涼子がいた。彼女の勤務は不規則で大変そうだったが、それでも時間を作り、互いの生活に寄り添う日々を送っていた。ある冬の日、私は彼女を海沿いのレストランに誘った。窓の外には夕陽が沈み、水平線が赤く染まっていた。食事を終えた後、私はポケットから小さな箱を取り出した。
「涼子さん。」
その瞬間、彼女の目がわずかに見開かれた。私は深呼吸をして、言葉を続けた。
「私は事故で両足を折って、無力な気持ちでいました。でも、その時間があったから涼子さんと出会えた。あなたがいたから、私はここまで歩いてこられたんです。」
小さな箱を開けると、シンプルな銀の指輪が光った。
「……結婚を急ぐつもりはありません。でも、これからも一緒に人生を歩んでいきたい。どうか、私と婚約してください」
涼子の目に涙が滲んだ。彼女はしばらく黙り込んでいたが、やがて震える声で答えた。
「……はい。私も、ずっとそう思っていました」
指輪を受け取り、彼女の薬指にはめると、その小さな手が私の手をぎゅっと握り返した。
私と涼子の出会いは、決して喜ばしいものではなかった。事故、入院、騒動や危機――数々の出来事を乗り越える中で、いつしか互いを必要とするようになった。
病院の白い壁に囲まれた日々が、私たちにとっての始まりだった。そして今、新しい未来へと続く道を共に歩もうとしている。
結婚という形はまだ先かもしれない。それでも「婚約」という約束が、私たちの心を確かに結びつけていた。
冬の海風が冷たく頬を撫でる中、私は涼子の手を離さないと心に誓った。




