第五話第二章
夕方、病室のドアを半ば閉じたまま本を読んでいた時、廊下から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「何度言ったらわかるんだ! 窓を開けるな!」
「こっちだって息苦しいんだよ!あんたの勝手には従えない!」
どうやら同じ病棟に入院している患者たちが口論しているらしい。私は好奇心に負け、そっと様子を覗いてみた。そこでは中年の患者・田所さんと、隣のベッドに入院中の若者が互いに掴みかかりそうな勢いで睨み合っていた。見舞いに来ていた家族まで口を挟み、騒ぎはさらに大きくなっていた。
看護師たちが止めに入るが、両者とも意地になっているのか声は大きくなる一方だ。その瞬間、すっと人垣を割るように涼子が現れた。
「お二人とも、落ち着いてください」その声は大きくはなかったが、なぜか不思議と空気を変える力を持っていた。彼女は両者の間に立ち、視線を受け止めながら続ける。
「ここは病院です。みなさん体を休めに来ているのに、この騒ぎで迷惑をしている方がたくさんいます」それでも二人は納得しない様子だった。私はふと口を開いた。
「……もしよければ、時間で区切るのはどうでしょう?」
一斉に視線がこちらに向いた。私はベッドの上で少し居心地の悪さを覚えながらも続けた。
「昼間は窓を開けて換気をして、夜は閉める。ルールを決めればいいと思うんです。」
二人は一瞬黙り込み、やがて渋々ながらも同意した。騒ぎは次第に収まり、廊下にようやく静けさが戻った。
涼子が私に目を向け、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます。とても助かりました。」
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。入院患者としては無力だと思っていた自分が、誰かの役に立てた。しかも涼子にそう言ってもらえたことが、妙に誇らしかった。それ以来、病棟の患者や看護師たちが私に気軽に話しかけてくるようになった。「編集の人」という存在感が、病室の外にも広がっていったのだ。
退院が近づいてきた頃。私の両足は順調に回復しており、松葉杖を使えば歩行も可能になっていた。
医師の診察も「あと数週間で退院できるでしょう」という言葉が出るほど順調だった。
そんなある日の午後、研修医が点滴を交換しに来た。若々しい顔立ちに白衣がまだ馴染んでおらず、どこか頼りない印象を受けた。彼は無言で点滴バッグを取り出し、ホースに接続しようとした。その動作に私は小さな違和感を覚えた。
その瞬間、扉が開き、涼子が入ってきた。
「先生、その薬は違います。」
彼女の声はいつになく鋭かった。研修医はぎょっとして手を止め、点滴バッグを見直した。ラベルには確かに別の患者の名前と、強い鎮痛剤の記載があった。
もし投与されていたら――考えるだけで背筋が冷える。
「し、失礼しました……!」
研修医は顔を青ざめさせ、深々と頭を下げた。
私は胸を撫で下ろし、涼子に目を向けた。「……気づいてくれて、本当にありがとうございます。もしあのままだったらと思うと……」
涼子は一瞬黙り込み、それから小さく首を振った。
「確認は二重三重にするものです。それでも見落とすことがある……だから、私が絶対に気づかなければならない。今日のことは、私にとっても忘れられない出来事になりそうです。」その表情は看護師としての責任感に満ちていたが、同時にかすかな震えも見て取れた。
私は思わず言葉を添えた。
「でも、涼子さんは気づいた。命を守ってくれた。それが事実ですよ」
涼子の目が一瞬揺らぎ、そして柔らかく笑みを浮かべた。
その夜。消灯時間を過ぎた静かな病室に、控えめなノックが響いた。
「百田さん、まだ起きてますか?」
涼子だった。夜勤用のカーディガンを羽織り、両手に紙コップを持っている。私は驚きながらも、スタンドを点けて彼女を迎えた。
「起きてますよ。」
「では、一緒にお茶でもどうですか。」
紙コップを受け取り、温かさを感じながら口をつける。涼子は椅子に腰を下ろし、しばし黙っていた。やがて小さな声で言った。
「昼間のこと、正直怖かったんです。もし私が気づかなければ、あなたに危険が及んでいた。そう思うと、まだ手が震えるんです。」
私は静かに首を振った。「でも、気づいたのは涼子さんです。あの一瞬で行動できる人はそう多くありません。……私にとって、あなたはかけがえのない存在です。」
言葉を口にした瞬間、病室の空気が変わった気がした。涼子は驚いたように私を見つめ、そして少し頬を赤らめた。
「百田さんって……患者なのに、私の気持ちを整えてくれる。まるで草稿を支える編集者のように」
私は笑った。「職業病かもしれませんね。でも、もし退院しても……患者と看護師じゃなく、“個人として”お話できたら嬉しいです」
涼子はしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。「……私も、そう思っていました」
その言葉は、白い病室をほんのりと温める炎のように胸に沁みた。入院生活で積み重ねてきた小さな事件の数々――患者仲間の騒動、医療ミスの未遂。それらは決して愉快な出来事ではなかったが、それらを通じて私と涼子の間には確かな絆が芽生えていた。
白いカーテンを揺らす夜風の中で、私たちはもう一人の「患者」と「看護師」ではなく、一人の「人」と「人」として向き合っていた。
翌朝。夜勤を終えた涼子は少し眠そうな目をしていたが、いつも通りの笑顔で病室に顔を出した。私はベッドから身を起こし、軽く手を振った。
「昨日はありがとうございました。おかげで、ぐっすり眠れました」
「こちらこそ……仕事中に私情を持ち込んでしまってすみません。でも、不思議と心が軽くなったんです」
涼子はそう言って頬にかかった髪を耳にかける。その仕草が妙に親密なものに見えて、私は思わず目を逸らした。こんな気持ちになるなんて、入院した当初は想像もしていなかった。
退院の日程は刻一刻と近づいていた。編集部からも「戻ってきてほしい」という連絡が入り、日常が再び私を呼んでいる。だが同時に、病院で過ごした時間が自分にとって大切な記憶になりつつあることを強く感じていた。
昼休み、廊下のベンチに腰を下ろした時、涼子が隣に座った。
「退院したら、もうここで毎日会えなくなりますね」
「ええ。でも……会えないわけじゃないでしょう?」
そう答えると、涼子は驚いたように目を丸くし、それから少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「……そうですね。患者さんじゃなくて、百田さん個人として。また会いに来てくださると嬉しいです」
その言葉に胸が熱くなる。病室で芽生えた繋がりが、病院を出ても続いていく――そう思えることが何よりの救いだった。私の入院生活は確かに苦難の連続だったが、小さな事件を乗り越え、そして涼子と心を通わせたことで、それはただの苦難ではなく、かけがえのない時間へと変わっていた。
退院後、出版社の編集事務の仕事に戻った。
「また病院に行けば会えるから大丈夫だな。」