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第五話第一章

 不幸中の幸いは本当に幸せなのかと考えると、さほど不幸でもなく幸福でもない。でも幸福は待って訪れるものと自分から幸福になるという選択肢がある。不幸中の幸いというのは自分からも待っていても訪れることはない。完全に運なのであるから。では運で不幸でも幸いなのは幸福なことになるのか。

 

 私――出版社で働く百田白詩は交通事故による両足骨折で入院をした。命に別状はなかったし、後遺症が残る訳ではない点は僥倖だった。不便ではあるが、長めの休養だと思えば悪くはない。個室の病室だから気が楽だし、何より、担当してくれる看護師がとても美人で目の保養になる。


 「失礼します」


 そう言って担当看護師の涼子が入室してきた。朝の回診だ。


 「気分や体の調子はどうですか?何かあればすぐに言ってくださいね」


 「ありがとうございます。今のところ、特に痛みはありません。歩けないのは不便ですけど……」私はベッドの上で少し体を起こし、笑みを浮かべる。涼子はベッドの横に立ち、カルテを手にしながら頷いた。


 「そうですか。それなら安心ですね。でも、無理はしないでくださいね。歩行訓練も少しずつですから」涼子の声には優しさがあり、どこか落ち着く響きがある。私はふと、こんなに近くで美しい人を毎日見られる状況も悪くない、と心の中で思った。


 「ちなみに、昨日の検査結果ですが、骨の付き方は順調です。もう少しで松葉杖の許可も出そうです」涼子が嬉しそうに報告する。その表情はプロフェッショナルでありながら、どこか柔らかい温かみがあった。


 私はベッドに腰をかけたまま少し身を乗り出し、冗談めかして言った。「じゃあ、もう少しの辛抱ですね。涼子さんに頼りっぱなしになりそうです」


 涼子は軽く笑い、目を細めた。「そんなことないですよ。誰だって少しは頼りますから。それに、私もお話しするの、楽しみにしてますし」


 その言葉に、私は心の中で小さくドキッとした。病院の白い壁に囲まれた静かな病室の中、涼子の笑顔だけが鮮やかに光って見えた。涼子はカルテを閉じ、ベッドの脇に置いた。ふわりと揺れるナース服の胸元に目がいくのを必死に我慢しながら、彼女は微笑んだ。


 「頼りっぱなしでいいんですよ。それが私の仕事ですから」彼女の声は柔らかく、でもどこか挑発的な響きがあった。涼子はふとあなたの足元に視線を落とした。


 「でも、松葉杖を使うようになったら…私が支えられるのは診察時だけになりますね」そう言いながら彼女は少し困ったように眉を寄せた。その表情が妙に愛らしく、思わず笑いがこみ上げる。


 「大丈夫ですか?笑いすぎると傷口が痛むかも…」涼子は冗談めかして言ったが、その瞳は真剣だった。あなたを見つめるその眼差しには、看護師としての責任感と、少しだけ別の感情が混ざっているようだった。


 涼子が回診を終え、カルテを閉じたその時だった。廊下の方から慌ただしい声が聞こえてきた。


 「ちょっと! そっちは危ないです!」続けて、車輪の音がガラガラと響き、病室のドアが勢いよく開いた。ベッドに腰掛けた私の視線の先に、点滴スタンドを片手で押しながら全力で走る老人が飛び込んできたのだ。


 「ひ、ひゃあ……!?」思わず声が裏返る。


 「待ってください、山田さん!」追いかけてきた看護師が青ざめた顔で叫んだ。


 病室に乱入してきた老人――どうやら認知症を患っている入院患者らしい――は、逃げ場を探すようにきょろきょろし、そして私のベッドの影に隠れようとした。だが、両足にギプスを巻かれた私は身動きが取れない。


 「ちょ、ちょっと待ってください! ここは隠れる場所じゃ……!」


 困惑する私と、必死で老人を引き止めようとする看護師。そこへすぐに涼子が動いた。


「山田さん、落ち着いてください。ここは安全ですよ」低く、しかし優しい声。涼子はゆっくりと老人に近づき、その手をそっと取った。すると、さっきまで興奮していた老人の肩がみるみるうちに落ち着き、まるで子どものように素直に頷いた。


「……ふぅ、助かりました」安堵のため息を漏らす追いかけてきた若い看護師。私はただ呆然と一部始終を見守っていた。


 やがて騒ぎが収まると、涼子は私の方を振り返り、少しだけ申し訳なさそうに笑った。「驚かせてしまいましたね。病院ではこういうことも、時々あるんです」


 私は苦笑しながら肩をすくめる。「まるでドラマのワンシーンを見せてもらった気分です。」そう口にした瞬間、涼子の頬がわずかに赤く染まったように見えた。


 ――――――老人の逃走騒ぎから数日後。――――――

 病院の昼下がりは静かで、私は本を読みながら過ごしていた。出版社勤めの習性で、文字がないと落ち着かない。だが集中していると、不意に外から「ガシャン!」と大きな音が響いた。


 驚いて顔を上げると、ドアの向こうで騒ぎが起きているらしい。数秒後、涼子が慌てて入ってきた。


 「百田さん、すみません! 棚が倒れて廊下が少し塞がってしまって……怪我人は出てないんですが」


 「棚?」


 私は首を傾げる。やがて、補助用の台車に山積みされた書類や道具を抱えたスタッフが続々と廊下を通り過ぎていった。どうやら器材置き場の棚が倒れ、あたりに備品が散乱したらしい。


 「片付けを手伝おうにも、この足じゃ役立たずですね……」苦笑すると、涼子は一瞬考え込み、ふと顔を上げた。


 「でしたら――代わりに記録をお願いできませんか?」


 「記録?」


 「ええ。散乱した備品の種類や数を控えてもらえると助かります。出版社の方なら文字は得意ですよね?」


 予想外の頼みに、私は思わず笑ってしまった。

 「なるほど。こういう形で役立つとは思いませんでしたよ」


 クリップボードを手渡され、私は散乱した物品リストを書き写していった。包帯、注射器ケース、点滴のボトル……まるで編集作業のように分類していると、仕事をしている時の感覚が戻ってくる。


 「すごく助かります。正直、スタッフだけだと大雑把になってしまうので……」涼子が横で感心したように言った。彼女の横顔は、いつも以上に柔らかかった。

 

 入院生活にもある程度慣れ、日常のリズムが掴めてきた頃だった。私は依然としてギプスで両足を固定されていたが、看護師や医師の支えのおかげで、痛みや不安は次第に薄れていった。むしろ退屈を紛らわすように原稿や読書に耽り、病室を小さな書斎のように扱う余裕すら出てきていた。


 しかし、病院という場は常に静穏ではいられない。入院生活が中盤に差し掛かったある日、そのことを思い知らされる事件が起こった。


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