第四話最終章
――――――翌日――――――
会場の空気は重く張り詰め、荘司の心拍が静かに早まる。舞台の照明が部員たちを照らし、緊張の中で音が生まれる瞬間を待っている。
まずフルートが静かに息を吹き込む。柔らかく透明な音色が空間に広がり、聴衆の耳をそっとくすぐる。荘司は息を止め、音の粒が微かに震えるのを感じた。
続くクラリネットは、フルートに寄り添うように旋律を重ねる。木管特有の温かみと軽やかさが互いに絡み合い、室内の空気をふわりと揺らす。荘司は視線を舞台全体に移し、指揮棒を握れない右手の感覚を思い出した。
オーボエの孤独なソロが静かに響き渡る。尖ったような緊張感と哀愁を帯びた音が、会場の背後まで届き、荘司の胸をひとつ打つ。彼の左手が自然に空中で小さく振れ、音の波を追う。
次にサクソフォンが加わり、低音と中音域の厚みが増してくる。旋律のリズムが空間を染め、聴く者の体に直接触れるような感覚を生む。荘司は自然と肩を揺らし、心の中で拍を取りながら、部員たちの呼吸に同調した。
金管楽器が入ると、音の厚みが一気に増す。トランペットの高音が鋭く会場を切り裂き、ホルンの温かい音がその背後で包み込む。荘司は胸の奥が圧迫されるような迫力に息を呑む。音の密度と、奏者たちの集中力に圧倒される瞬間だった。
打楽器は正確で重厚なリズムを刻み、全体の構造を支える。スネアの鋭い音が緊張を引き締め、ティンパニの低い響きが胸に重く響く。荘司はかつて指揮棒で振った感覚を思い出す。左手だけでは微細なニュアンスに追いつかないが、それでも身体が無意識に音を感じ取り、呼応しようとしていた。
ソロ楽器が入る場面では、各奏者の技量と表現力が際立つ。フルートやトランペットのソロは聴衆の視線をひきつけ、荘司の心を揺さぶった。音の一つひとつが、舞台全体の緊張と集中を映し出す鏡のように思えた。
曲の終盤、全パートが一体となる瞬間。木管の柔らかさ、金管の力強さ、打楽器の鋭さが絡み合い、舞台と客席の境界を越えて空気を振動させる。荘司は目を閉じ、左手で音の波を追いながら、胸に込み上げる高揚感と哀愁を感じた。
最後の和音が消え、静寂が訪れる。会場には緊張の余韻だけが残り、やがて拍手が波のように広がった。荘司は深く息を吐き、胸の奥で音楽が解き放たれた余韻を噛みしめた。
その瞬間、荘司は心の中で呟いた。
「私は、内心良かったと確信した。」
まるでその言葉に呼応するかのように、会場には全体合唱の歓喜の歌が流れ始める。
「O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!
Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.」
木管と金管、打楽器の音が一体となり、会場全体を包み込む。ドイツ語の旋律が、荘司の胸に直接触れるように響き、奏者たちの顔にも歓喜の色が浮かぶ。
荘司は目を細め、両手を組む。左手だけで感じる音の波が、胸の奥に温かく伝わってくる。かつて自分が指揮台で求めた瞬間と、全く同じ高揚感だった。
音楽は、人を、空間を、そして時間を震わせる。その力を、今、目の前で確かに見た――。
空は柔らかな午後の光に包まれ、街路樹の影がゆっくりと歩道を横切る。荘司は手に小さな菓子折りを持ち、真柴が指導する音楽教室の扉の前に立っていた。
扉を押すと、練習の余韻がまだ微かに残る室内に足音が吸い込まれる。窓から差し込む光が、楽譜の端や譜面台を淡く照らしていた。部員たちは練習を終え、片付けをしているところだった。
「こんにちは、少しお邪魔します」落ち着いた声で挨拶すると、真柴が微笑みながら振り向いた。
「荘司か。どうした?」
手に持った菓子折りを差し出す。「コンクール、本当にお疲れさまでした。ほんの気持ちですが…」真柴は受け取り、軽く頭を下げる。部員たちも興味深げにこちらを見つめている。
「演奏、素晴らしかったよ。迫力と繊細さの両方が、舞台で見事に表現されていた。それとクラリネットの子がすごく楽しそうだったよ。」荘司は静かに言葉を続ける。胸の奥で余韻がまだ揺れており、その熱をどう伝えればいいのか、少し言葉を選びながら話す。
真柴は少し考えるように視線を巡らせ、そして柔らかく頷いた。
「ありがとう。部員たちも、一生懸命だった。君が聴いてくれていたことも、励みになっただろう。クラリネットの担当は一年の山口なんだ。」
荘司は微かに笑みを浮かべる。部員たちの顔にも、演奏で得た充足感と達成感が残っていた。「改めて思ったよ。音楽は、人を結びつける力があると」
短い時間だったが、室内には静かで温かな空気が流れた。窓の外では、午後の光が樹影を揺らし、室内に柔らかく降り注ぐ。
菓子折りを渡した後、荘司は軽く頭を下げ、部屋を後にする。歩きながら心の中で、音楽の余韻と、人と人を繋ぐ温かさを静かに噛み締めた。
一方その頃、ユミは新年に行われるヴァイオリン大会に向けて、ひとり防音室で練習を重ねていた。弓を走らせるたび、冷えきった空気に細く鋭い響きが散っていく。己を削りながら磨かれていく音に、彼女自身も飲み込まれそうになっていた。
突然、扉が乱暴に押し開けられる。乾いた音が壁に跳ね返り、ユミの肩がかすかに揺れる。
「やっぱりここか。こんな遅くまで残ってるのは君しかいない」現れたのは高瀬だった。黒々とした瞳に浮かぶのは余裕と挑発、そしてどこか人を見下す冷たい光。
「聞いたぞ。新年の大会に出るんだってな。偶然だが、俺も出る。舞台の上で君を叩き潰すのを楽しみにしてる」
ユミは顔を上げ、弓を握りしめる。声を振り絞るように答えた。
「私は……他人を相手にしていない。ただ、自分の音を追っているだけ」
「自分の音?」高瀬は低く笑った。
「そんな曖昧な言葉じゃ勝てない。舞台は闘争だ。勝者だけが栄光を手にし、負けた者は無名の影に消える。君が負ければ、“孤高”なんて呼ばれることもなく、ただの凡庸な少女に戻るだけだ」
彼はさらに距離を詰め、囁くように言った。「それが嫌なら、俺の隣に来い。俺は君を彼女にしてやる。……ただし、敗者としてな」
ユミの胸が一瞬詰まり、息が乱れる。弓を持つ指がわずかに震えるのを必死に抑えながら、それでも彼女は視線を逸らさず言い返した。
「……その勝負、受けて立つ」
言葉は強く響いた。だが心の奥では、氷のような恐怖がじわじわと広がっていた。強気の声とは裏腹に、体の奥底が小さく震えているのを彼女は自覚していた。
防音室に走った沈黙は、彼女の内側の恐怖さえも封じ込めるかのように、重く長く漂っていた。




