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第四話第三章

 日の光が、教室の窓から柔らかく差し込む。机の上には昨日の楽譜と、使いかけのペン。ページの端が少し波打ち、誰も触れない間に空気の湿り気を吸ったのだろうか。


 ユミは椅子に腰かけ、指先で弓の毛を軽く撫でながら窓の外を見た。校庭の木々が、そよ風に揺れて小さな影を落としている。静けさが心に流れ込む。だが、その静謐の裏には常に微かな緊張があった。昨日の防音室での試み、そして荘司の沈黙――その余韻が、ユミの胸の奥にわずかにざわめきを残している。

 

 弦の響きに合わせて指揮してみろと言った自分の言葉が、あまりに無防備で大胆だったことを思い出す。彼が答えを出せなかったその沈黙は、ただの拒絶ではない。秘めた痛みが滲んでいたのだ。教室を出ると、廊下には同級生たちの笑い声が微かに混ざっていた。友人と談笑する声、筆記用具の音、軽く弾む靴音。日常の些細な喧騒が、ユミの心に小さな安堵をもたらす。

 

 「……これが、日常なのね」小さく呟く。音楽の緊張と違い、ここには誰も戦いを求めていない。誰も彼女の孤高を試すこともなく、ただ時間が静かに流れている。


 昼休み、図書室に立ち寄った。窓際の席を見つけ、外の光を背にして座る。手に取ったのは、小さな詩集。ページをめくるたび、言葉がゆっくりと胸に落ちる。隣の席に、軽く背の高い男子生徒が腰を下ろした。名前は知らない。視線は時折彼女の傍らの楽譜に触れるが、言葉は交わさない。存在はあるのに干渉はしない。そんな距離感に、ユミはほっとした。


 午後の練習が始まる前、ユミは深呼吸を一つ。バイオリンを取り出し、ケースから弓を滑らせる指先に集中する。弦が小さく震え、音がほんのわずかに空気を揺らす。その瞬間だけは、時間が自分のために止まったように感じられる。


 窓の外では、遠くで子どもたちの声が聞こえる。犬の吠える声が混ざり、鈴の音のように軽やかだ。都市のざわめきと、静かな練習室の音が交錯する。ユミは目を閉じ、音の余韻を全身で受け止める。


 そしてふと思う。

 ――あの人(秋田荘司)は、今どうしているだろう。

 胸の奥が小さくざわつく。答えを出せずにいた彼の沈黙は、時間を経てもまだ重く、彼女の心に残っている。


 しかし今は、ただこの瞬間を生きる。音を奏で、光を感じ、日常の息吹を吸い込む。緊張と静謐、孤独と小さな安堵が、混ざり合いながらユミの胸に淡く色を落としていった。


 夕暮れが校舎を淡い朱に染める頃、ユミは防音室の前に立っていた。空気は静まり、廊下を通る自分の足音が、いつもより重く響く。その扉の向こうでは、昨日と同じ弦の余韻が残っているかのように、かすかな振動が床に伝わってきた。胸の奥に、軽くざわめく影。高瀬の顔が一瞬、記憶の端に浮かぶ。あの自信満々で、傲慢さを隠さない笑み。再び弓を走らせる指先は、自分の努力を試すかのようで、背筋に微かな緊張を残した。

 

 ――また、あいつが来るかもしれない。


 ユミは深く息を吸い、手元の楽器を確かめる。指先の感覚、弓の毛の張り、木の香り。すべてが彼女自身の世界を支えている。高瀬の影があっても、心を乱さず、音で自分を貫く。窓の外に広がる夕闇は、少しずつ群青に溶けていく。

 

 ユミは譜面を開き、静かに弓を持ち上げる。旋律を始めると、室内に柔らかく音が広がる。指先から伝わる震えは小さく、しかし確かに自分を突き動かしていた。


 「……次は、自分を試すのね」

 ユミは小さく呟いた。昨日の防音室での挑発、そして荘司の沈黙。あの瞬間の余韻が、今もまだ胸に残っている。自分の音は誰かに届くのか、届かぬのか。孤独の中で、自らに問いかけるように弓を動かす。


 高瀬の影は遠くに感じられる。まだここにはいないけれど、彼の存在は常に心の片隅にある。挑戦の匂いとして、冷たく、しかし鮮やかに浮かび上がる。

 ――あの男に負けるわけにはいかない。


 旋律は次第に力を帯び、部屋の空気を切り裂く。指先の微細な動きが、音の波を生む。ユミの心は静謐の中にありながら、内側では確かに炎が燃えていた。孤独と期待、挑戦と不安。すべてが混ざり合い、音楽に昇華されていく。


 最後の和音が静かに消え、室内に残るのは、微かな呼吸と弓の余韻だけだった。ユミは譜面を閉じ、椅子に沈む。身体の奥の緊張が、少しずつ溶けていく。


 外の世界では、夕闇が校庭の樹影を深く染め上げる。高瀬の影はまだ現れない。だが、ユミの心は次の挑戦に向けて静かに準備を整えていた。

 

 次に、弓を持つとき、あいつの存在をも受け止められるように。


――――――1週間後の11月の始め――――――

 校舎の奥、吹奏楽部の練習室に足を踏み入れた瞬間、荘司の胸に張り詰めた空気が届く。木管の柔らかな旋律、金管の厚み、打楽器の鋭いリズム。すべてが微妙に重なり合い、部室の狭さを忘れさせるほどの音の洪水を生んでいた。


 指揮台に立つ真柴は、落ち着いた眼差しで各パートを見渡す。三十を過ぎた風貌だが、指揮棒の動きは軽やかで的確。奏者たちの呼吸に合わせるだけでなく、音の呼吸そのものを操っているようだった。


 荘司は客席側に立ち、目を細める。音の隅々まで神経を巡らせ、部員一人ひとりの息遣いや弓の運びまで見逃さない。かつて自分が指揮台に立っていた時の感覚が、まるで身体の奥底で蘇る。だが、右手の麻痺は隠せず、今はただ左手で微かに空気を撫でるようにして、音の流れを追うしかなかった。


 「もっとアクセントを意識して、フレーズを一つひとつ生きさせろ!」真柴の声が響き、部員たちが一斉に音を調整する。荘司は唇を噛み、心の中で拍手を送る。指揮棒を握ることはできなくても、音の流れを追い、音の隙間に自分を置く。


 演奏が終わると私は真柴や演奏していた生徒に緊張をほぐせるように明るく褒めた。


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