第四話第二章
――――――夜――――――
荘司は自宅の薄暗い部屋に立っていた。窓際のランプが、机の上に置かれた古い指揮棒を淡く照らしている。左手でそっとそれを掴む。右手ではもう握れない。指揮者の証はただの木片に変わっていた。
息を吸い、左手を上げる。音のない空間に、幻の楽団が並ぶ。ヴァイオリンの群れ、金管の列、打楽器の影。荘司の前に、かつての自分が立っていた。堂々と両手を掲げ、鮮やかな身振りで音を支配する男。若く、燃え上がるような眼差しをした過去の自分。
左手で必死に棒を振る。だが、拍子は乱れ、音は生まれない。幻影の彼が冷笑する。
「お前はもう、指揮者じゃない」
膝が震えた。指揮棒が手から滑り落ち、床に乾いた音を立てる。静寂の中、荘司の胸にのしかかるのは、過去の自分という最も強大な敵だった。
彼は頭を抱え、深い闇の中で身じろぎもせずに立ち尽くした。
――――――一方そのころ――――――
夜の練習室。
最後の音が消え、ユミは弓を静かに下ろした。吐息が細く揺れる。窓の外には群青の闇が降り、街灯の光がにじんでいる。そのとき、背後でドアが軋んだ。
「……やっぱりいたか」低く余裕を含んだ声。振り返ると、黒いケースを抱えた青年が立っていた。名は高瀬。音大でも指折りの実力を誇るヴァイオリニストだ。
彼は当然のように入ってきて、ユミの譜面台を覗き込む。「また基礎練か。お前、いつまでそんなことやってんだよ。効率悪すぎ。」唇の端に笑みを浮かべ、彼は自分の楽器を取り出した。流れるように調弦し、ユミの隣で勝手に構える。
弓が走った。軽やかで鮮やかな音。技巧の冴えは誰もが認めるものだ。ユミは黙って聴いていたが、青い瞳の奥に小さな棘が生まれる。
「な?俺とお前じゃ格が違う」高瀬は演奏を止め、挑むように笑った。
「でも、お前は悪くない。……ユミ、俺の彼女になれよ」
その言葉は、まるで音を支配するかのように当然の響きを帯びていた。ユミは目を瞬かせ、弓を握る手に力をこめた。
「……くだらない」
短く吐き捨てる。その声は冷たかったが、胸の奥にわずかな熱が灯る。見下されることへの苛立ちか、それとも誰かに求められることへの戸惑いか。
高瀬は彼女の反応に構わず、さらに一歩近づいた。「強がんなよ。俺と組めば、もっと大きな舞台に立てる。独りで殻に閉じこもってるだけじゃ、何も変わらない」
ユミは瞳を伏せた。幼い日の孤独、誰にも理解されなかった音。それでも、自分を支えてきたのはたった一挺のヴァイオリンだった。
「……私の音は、誰かの影に縋るためのものじゃない」
その言葉を置いて、ユミはケースに楽器を収めた。背後で高瀬が苦笑する気配があった。勝ち誇りと苛立ちの混じったような、濁った笑み。
ドアを閉めると、廊下の冷気が頬を撫でた。
――誰かの隣に立つためではなく、自分の音を確かめるために。
ユミは無言のまま歩みを進めた。
午後の校舎は、ざわめきが遠のき、どこか張り詰めた気配を帯びていた。
荘司は、再び防音室の前に立っていた。理由は自分でもはっきりしない。真柴に頼まれたからという言い訳は、もはや形骸に過ぎなかった。
重い扉を押し開けると、昨日と同じように、弦の響きが空気を支配していた。譜面台の前でユミが弓を振るう。青い瞳は譜面ではなく、どこか遠い場所を見つめている。
最後の一音が途切れると、彼女は振り返り、荘司を見据えた。
「……また、来たの?」その声には呆れと、ほんのわずかな期待が混じっていた。
荘司は返答に迷い、曖昧に頷いた。「君の音を、もう一度聴きたかった」
ユミは弓を下ろし、静かに問いかける。「ねえ……やっぱり、あなた、隠してることがあるでしょう?」
荘司の胸がわずかに強張る。「なぜそう思う?」
「音を聴けば分かる。嘘を抱えてる人の気配は、どうしても音に滲むの」ユミの声は静かだった。糾弾ではなく、真実を引き出そうとするような響き。
荘司は答えず、ただ視線を逸らした。
右手に走る痺れが、冷たい証拠のように存在を主張する。だが、それを口にすることはできない。
ユミはさらに一歩近づいた。
「……逃げ続けるなら、音楽もあなたを拒むわ。」青い瞳が射抜くように彼を見た。
荘司は呼吸を整えようとしたが、言葉は喉で絡まり、何も出てこなかった。ただ、かつて指揮台に立っていた自分の幻影が、また背後で腕を広げていた。ただ腕は動かなかった。
静寂を破ったのは、ユミの低い声だった。「……じゃあ、やってみなさいよ」
荘司は顔を上げる。「何を?」
ユミは弓を持ち上げ、ヴァイオリンを構え直した。
「指揮よ。私の演奏に合わせて。昔、そうしていたんでしょう?」
その挑発に似た響きは、好奇心の裏返しでもあった。青い瞳には、彼の答えを待ち構える緊張と、わずかな期待が宿っている。
荘司は唇を結んだ。喉の奥で何かがつかえ、呼吸が苦しい。
「……今は無理だ」
「言い訳?」ユミは首をかしげ、鋭く切り込んでくる。「逃げてばかりなら、本当に音楽を失うわ」
その言葉が胸に突き刺さった。彼女が放つ冷ややかな挑戦は、荘司の内側に眠っていた痛みを揺さぶる。やがて、彼は左手をそっと持ち上げた。右手は依然として膝に置かれ、動くことはない。それでも――左手だけでなら。
「……分かった」
ユミは目を細め、短く頷いた。次の瞬間、弦が鳴る。細い旋律が、静寂を裂いて空気を満たす。
荘司は左手を振った。かつてのような確かさはない。ぎこちなく、拍を掴み損ね、音と乖離する瞬間もある。それでも、彼は必死に食らいついた。
ユミの瞳が揺れる。まるで「試すつもりだったのに、思っていた以上に真剣だ」とでも言うように。
曲の終わりが訪れ、最後の音が空間に溶ける。防音室は静まり返り、二人の呼吸だけが残った。
「……どう?」ユミが問いかける。声は挑発的でありながら、その奥には微かな震えがあった。
荘司は答えられなかった。左手の震えと、右手の沈黙。その対比が痛いほど胸に迫り、言葉を奪っていた。
ユミの問いかけが、静まり返った防音室に沈む。荘司は唇を開きかけ、言葉を飲み込んだ。胸の奥で疼くものをどう言葉にすればよいのか分からない。ただ左手の震えだけが真実を物語っていた。やがて彼は、かすかに声を絞り出す。
「……まだ、答えられない」
苦しみの日々が反芻していき右手がかすかに震える。




