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第四話第一章

 失ったものは大小重軽が割り振られる。それにより心のなかで異常に反芻したり、受け入れられず執着して求めることがある。ただ自分に残っているものすべてを失った時、人はどんな感情を抱くのだろうか。


  防音室の重い扉を押し開けた瞬間、張り詰めた弦の響きがこちらを射抜いた。

 細やかな音の残滓がまだ空気を震わせている。


 譜面台の前で、少女はヴァイオリンを肩にかけたままこちらを振り返った。

 透き通るような青い瞳が、瞬きもせずにまっすぐに射抜いてくる。その視線の鋭さは、まるで「部外者を許さない」と告げているかのようだった。


 「……誰?」

 凛とした声が、響きの余韻を断ち切る。

 

 「授業時間外よ」

 


 彼女は歩みを進めるごとに、黒い手袋の指先で弦を軽く弾いた。低く乾いた音が、狭い室内に淡く広がる。その一挙手一投足に、彼女が孤高の存在と噂される理由が滲み出ていた。


 秋田荘司は、わずかに息を整えて答えた。

 

 「音大の教師の友人に頼まれてね。君の演奏を一度聴いてみてほしいと」


 その名を出した瞬間、彼女の眉がほんの少しだけ動いた。だが、疑念と警戒は簡単には消えない。唇がかすかに曲線を描く。


 「……ふん。褒めても何も出ないわよ」


 そっけなく言い放ちながらも、彼女は再びヴァイオリンを構えた。肩に力を預け、弓を弦へと静かに乗せる。


 次の瞬間、音が生まれた。凍りついた空気を鮮やかに切り裂くような鋭さと、胸の奥を震わせるほどの深い響き。まるで、この狭い防音室そのものが一つの大きな楽器になったかのようだった。


 荘司はただ立ち尽くし、聴くしかなかった。かつて指揮台から見下ろした数百の奏者の姿も、世界の舞台で浴びた拍手も、いま彼女の一音にすべてかき消されていく。彼の麻痺した右手が、幻のようにわずかに疼いた。


 やがて、ユミは弓を離し、静寂が訪れる。

 

 「……それで? 感想は?」


 挑発にも似た問い。だが、その声の裏側に、ごくわずかな期待が潜んでいるのを荘司は感じ取った。孤高と呼ばれながら、彼女もまた認められることを欲している――そんな矛盾を。


 「……悪くない。いや――本物だ」短く言葉を落としたとき、ユミの瞳がかすかに揺れた。


 防音室を出ると、友人である音大教師・真柴が廊下で待っていた。四十を過ぎたばかりの落ち着いた風貌に、どこか少年のような笑みを残している男だ。



 「どうだった、荘司? 彼女、なかなかのものだろう」


 「……ああ。まだ粗削りだが、音に力がある。あれは本物になる」


 荘司の言葉に、真柴は目を細めた。「そう言ってもらえると助かるよ。彼女、あまり人と馴染まなくてな。音だけが、唯一の言葉なんだ」


 二人は校舎を抜け、講堂へと足を運んだ。今日は吹奏楽部の公開練習日で、部員たちが集まっている。荘司はかつて幾度も耳にした金管の音、木管のざわめきを懐かしむように感じた。


 指揮台には真柴が立ち、荘司は客席に腰を下ろした。曲はホルストの《第一組曲》。クラリネットが柔らかく旋律を織り出し、ホルンが重ねる。金管の厚みと打楽器の明瞭なリズム。荘司の胸がざわめいた。かつて自らがその中心に立っていた日々の記憶が甦る。


 無意識のうちに、左手が軽く動く。もう指揮棒を握ることはできない。それでも身体が、音楽に反応してしまう。最後の和音が響き渡ったとき、荘司は深く息を吐いた。拍手の中、真柴が満足げに頷き、舞台を降りてきた。


「やはり君はまだ音楽から逃げられないな」


 「……そうかもしれない」それ以上の言葉は出なかった。


 夕暮れが街を赤く染めるころ、真柴と別れた荘司は、近くのカフェに立ち寄った。

 扉を開けると、ベルの音とともにコーヒーの香りが漂う。窓際の席に腰を下ろし、深煎りのブレンドを注文する。


 そして視線を上げたとき、そこに見覚えのある姿があった。

 藤元ユミ。ヴァイオリンケースを椅子に立てかけ、ノートに走り書きをしている。学内で見たときよりも少し柔らかい表情で、髪を耳にかける仕草が妙に大人びて見える。荘司の視線に気づいたのか、ユミが顔を上げる。青い瞳が一瞬驚きに揺れ、すぐに形の良い唇がわずかに曲がった。


「……また、あなた?」少し呆れたような声。だが完全な拒絶ではない。


「偶然だな」荘司は短く返す。

 

 ユミはノートを閉じ、ヴァイオリンケースに手を置いた。


 「音楽に縁があるのね、あなた」


 カップが運ばれ、二人の間に温かな香りが満ちる。窓の外では夕闇が濃くなり、カフェの灯が柔らかく彼らを照らしていた。


 カフェの窓辺に沈む夕暮れは、深い群青へと変わりつつあった。


 ユミはページの上にペン先を止め、しばし視線を宙に漂わせる。


 カップの縁から上る湯気が、言葉にならぬ思いをかき消すように揺れている。


 静かなジャズが低く流れ、グラスの触れ合う音が遠くで響いた。


 彼女はやがて小さく息を吐き、椅子を引く。


 振り返ることなく、音もなく去っていく背中に、言い残された気配だけが置き去りにされた。


 ――――――翌日――――――

 防音室の扉を開けると、またしても澄んだ弦の響きが空気を支配していた。昨日と同じように、ユミは譜面台の前に立ち、わずかな光を拾う指先で弦をなぞっていた。その姿はまるで、外界を拒絶する孤高の彫像のようだった。


 「……また来たの?」弓を止め、青い瞳だけをこちらに向ける。昨日よりもわずかに冷ややかな声音が響く。


 「昨日の演奏を褒めたかったんだ」荘司がそう口にすると、ユミは鼻で小さく笑った。

 

 「ふん。お世辞は要らないわ。……でも、今日は何かが違う気がする」そう言いながら、ヴァイオリンを下ろし、黒い手袋をはめたままの指で耳にかかった髪を払う。動作は優雅なのに、どこか探るような緊張が漂った。


 「何が違うって?」


 「分からない。ただ……」ユミは眉を寄せ、真っ直ぐに荘司を見据える。


 「あなた、指揮者だったんでしょう?」不意の問いに、荘司の心臓が一瞬強く打った。ユミの瞳は好奇心にわずかな光を宿し、彼の沈黙を測ろうとするように揺れずに見つめ続けていた。


 「誰から聞いた?」


 「誰からって……あら、気になる?」ユミは唇の端をわずかに持ち上げ、試すような声音で答える。


 やがて彼女は声を落とし、低く静かに続けた。

 

 「音大の教師の友人よ。あなたの名前も、指揮者だったことも――全部」


 その言葉とともに、ユミの視線が荘司の腕に滑り落ちる。弛緩した右手にしばし止まり、それから再び彼の顔に戻った。


 「でも、本当に指揮者だったの? 今は……なぜここにいるの?」


 その問いには冷ややかさだけでなく、氷の奥に潜む炎のような、かすかな好奇心と期待がにじんでいた。


 荘司は答えを探すようにわずかに視線を逸らす。右手に走る鈍い痺れが、言葉よりも先に真実を暴こうとするからだ。


 「……ただ、やめたんだ」

 短い言葉を吐き出す。それ以上を説明する余裕はない。


 ユミの瞳が細くなる。

 「理由もなくやめるはずないでしょう?」弓先を下ろしたまま、彼女は一歩踏み込む。

 

 「音楽から逃げたの? それとも……捨てられたの?」


 荘司の胸に、かつての観客席のざわめきが甦る。喝采とともに崩れ落ちた舞台。砕ける音。伸ばした右手の感覚が消えた瞬間。だが彼はその記憶を唇の裏に噛み殺す。


 「誰にでも……続けられなくなる時はある」それが限界だった。言葉は曖昧な霧のように宙に漂い、真実を覆い隠す。


 ユミは黙り込む。けれど沈黙は諦めではなかった。彼女の青い瞳はなおも問いを宿し、答えを掘り出そうとするように揺るがない。

 「……あなた、まだ嘘をついてる」小さくそう呟いて、彼女は弓を握り直した。


 次の瞬間、再び響きが空気を支配し、問いは音の中にかき消された。

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