七話 いつまでも沈黙は耐えられない
「…………」
今日も今日とてやって来たユグドは日陰の部屋で座椅子に腰掛けたまま瞑目していた。彼女と水食糧と引き換えに場所を提供してこれで三度目の来訪になるが、今のところ彼女は眠ったように静かな時間を過ごしているだけだ。眠っている陽でもなくただ微動だにせずそこにいるさまはそれこそ彼女自身が一つの樹のようにも思えてくる。
だから、というか日陰はようやく彼女の存在に慣れつつあった。特に自分に干渉してくるわけでもなくただそこに在るだけ、そして彼女自身はそこにいて不快な存在ではなく見目麗しい存在だ…………極端な言い方をすれば観葉植物のようなものと思えばストレスもない。
ただ、それでも彼女は自分と同じ人間であるということを日陰は忘れていた。
「うむ、これくらいでよいかの」
不意にユグドがその目を開く。いつものパターンからすればまだ帰る時間ではない。どういうことかと視線を向けると彼女と目が合った。
「え、えっと、どうかしたの」
目が合うとどうにも気後れしてしまい尋ねる言葉がどもる。そんな日陰をユグドは慈しむように穏やかな表情で見つめて言葉を返す。
「なに、日陰殿のおかげ十分な休養が取れたというだけじゃよ。精神的な疲労も概ね回復して当面の間は里での外圧にも我慢ができそうじゃ」
「そ、それはよかった…………ね?」
思わず語尾が疑問形になってしまったのはユグドの言葉に不安を覚えたからだ。エルフの里では気が休まらないから落ち着ける場所を貸して欲しいと彼女は日陰と取引した。しかし十分に休めたのなら彼女にここで滞在する理由はなくなったかもしれない。
本音を言えば日陰はユグドがここを去るなら大歓迎ではあった。別に彼女のことが嫌いなわけではないし、例えば自室のスペースを間借りするのではなく他の部屋に滞在という形だったら彼も気にならなかっただろう。
けれど現実に提供できるのは彼のプライベートスペースしかなく、そこに他者が存在するというのは大きなストレスだった。
しかし同時にもしもユグドが去ってしまえば再び一人になってしまい寂しいという矛盾した感情もあり、さらに理性は水と食料の供給減がなくなるという危機を訴えている…………そのせいで自分でもユグドに何を願うべきか日陰もわかりかねていた。
「くふふ、別に取引をやめたいとかそういう話ではないよ…………日陰殿には申し訳ないが当面の間はこの場所を間借りさせて頂くつもりじゃからの」
しかしそこはやはり人生経験の差か、日陰の心情を読み取ってユグドは自分が迷惑をかけている側なのだと口にする…………だから仕方ないのだと、その矛盾した感情を彼が納得させられるように。
「えっと、それじゃあ…………」
「ここ数日はまず休むことに集中しておったがゆえ何もせなんだが、十分に休めた今となってはその必要もない。もちろん基本的に休ませてもらいに来るのは変わらぬがの…………これからは少しばかり知識欲も満たさせてもらいたいという話じゃ」
「知識欲…………」
「つまりはそれらじゃの」
本棚やテレビなど部屋のいくつかのものにユグドは視線を向ける。本棚に入っているのは高尚な書物でも何でもない漫画やラノベだが、それを知らない彼女からすれば異世界の知識が納められた本に見えるだろう。そして剣と魔法のファンタジーの住人である彼女からすれば別系統の文化の結晶である機械類はとても興味深く見えるはずだ。
「許可を求めれば触れてよいという話じゃったよな?」
「う、うん…………テレビは、映らないけど」
どうやら日陰の部屋は元の世界にはもう存在していないらしいし、そもそも元の世界にいる時点でテレビ放送は止まっていた。それでもゲームをするモニターとしては使えるし、アニメや映画のDVDを見ることもできる…………電気やインターネットが繋がっているのは謎だが。
「テレビ、映る…………ふむ、とりあえず書物から拝見するのが良いかのう」
そもそもユグドには現時点でテレビがどういうものかという理解もない。しかし日陰がそれに否定的なことを言っているのは理解できるし、それならばまず書物から彼の世界の知識を得た方がいいと考えたのだ。
「しょ、書物って言っても漫画とかラノベ…………なんだけど」
「ふむ、漫画やラノベとはいかなるもなのかの?」
「…………ええと」
自分の日常に当たり前にあるものの説明をいきなり求められると難しい。説明せずとも通じるものなのだから必要な言葉の組み立てが自分の中にできていない。
「えっと漫画は創作の物語…………エルフにもお伽噺とか、そういう概念はあるよね?」
「うむあるぞ」
「ならえっと、そういう物語を絵と言葉で表現したものって言えばわかる、かな?」
「ふむ、絵と言葉でか」
「それでラノベ…………正しくはライトノベルなんだけどそっちの方はそれを全部文章だけで表現してるものって感じ」
「ふむふむ」
日陰の説明を噛み砕くようにユグドは頷く。
「つまりその二種類の書物は娯楽が目的のもので、わしの想像したような異世界の知識が記されたものではないと日陰殿は言いたいのじゃな?」
「そう、なるの…………かな」
ユグドの理解が良すぎて日陰は怯むくらいだった。
「図書館とかに行けばそういう本はあると思うけど…………うちにはちょっと」
「そうか、それは残念じゃのう」
「…………あ」
残念そうにユグドが呟くが、ふと日陰は思い出す。彼自身が望んで購入したわけではないがどの家庭にも概ね存在する本というものはあるのだ。
「そうだ、教科書なら…………あったかも」
引き籠る前は日陰も学生だったので当然教科書は購入している。
「ふむ、教科書とは?」
「学校…………ってわかる?」
「学び舎のことじゃろう? エルフの里では集団で学習させるような習慣はないが、そう言ったものがあるのは知識としてある」
「教科書は…………そこで学ぶ知識を記した書物、かな」
「ほうほう」
興味深げな視線を向けるユグドを他所に日陰はクローゼットを開ける。高校の教科書は学校のロッカーに放り込んだままだったはずだが、小中のものはクローゼットの中にしまって捨ててはいなかったはずだ。
「えっと、こういう場合は…………歴史、だよね」
歴史の教科書であれば世界がどういう形で発展してきたのか記してある。その成り立ちや技術に常識なんかを知るにはちょうどいいものだろう。
「はい、これ」
「感謝する……………話からするとこれは歴史書なのじゃろうが、他のものは?」
日陰の持つ歴史以外の教科書にユグドは目を向ける。
「こっちは数学とか理科とか…………僕らの世界の技術やそれを理解するための知識を深めるためのもの、かな」
「それも興味があるのう」
「…………読む?」
日陰からすれば一番わかりやすいかと思った歴史を渡しただけで、別に他のものも読みたいのなら止める理由は無い。
「いや、まずはこの歴史書を読み解いてからにするとしよう。まずは日蔭殿の世界の成り立ちを知ったほうがそこで使われている技術などの理解もしやすいじゃろうからの」
「そう…………あ、でも」
納得して他の教科書をしまおうとして日陰はふと気づく。
「それ、読めるの?」
なぜだか知らないが日陰とユグドの言葉は通じている。しかし文字のほうはどうなのだろうと彼は疑問が浮かんだのだ。
「うむ、読めるようじゃ。文字自体は理解できぬがその意味は分かる」
「え、どういうこと?」
それは読めないということではないのだろうか。
「さての、そう望む者がおったからではないのかのう」
理解はしているが語らぬというように、はぐらかすようにユグドはそう言った。
お読み頂きありがとうございます。
励みになりますのでご評価、ブックマーク、感想等を頂けるとありがたいです。