六話 特に何があるわけでもないけど落ち着かない
「扉が閉ざされておらぬようで何よりじゃ。再びの訪問の許可を感謝するぞ、日陰殿」
ユグドが日陰の部屋に戻って来たのは彼女が去って三日後だった。戻ってくるのか来ないのか、期待と不安の入り混じる感情で時折自室の扉を見つめていた日陰は突然のノックの音に動揺しつつも安堵した。しかし次に本当に彼女なのかという疑問が浮かんで慄いたが、結局扉の向こうから現れたのはちゃんとユグドでほっとする。
「ちょ、ちょっと遅かった、ね」
とはいえその安堵を素直に態度に出すのも恥ずかしく、平静を取り繕いながらそんなことを尋ねる。その質問自体が相手に待ちわびていたと伝えるようなものだと気づかない程度には頭が回っていなかった。
「うむ、できればもう少し早く来たかったのじゃがわしにも立場があるでな…………日に数時間姿を消す理由を作るのに少し手間取った」
ユグドは世界樹の巫女という里の要職に勤めており、しかも今は彼女を追い落とそうとする若いエルフたちに監視されているという話だった。それが日に数時間とはいえ完全に身を隠すとなれば確かに理由が必要だろう。
「しかしこれで気兼ねなく羽を伸ばせるというものよ」
ようやく肩の荷が降りたというようにユグドは柔らかい笑みを浮かべる。老獪さを感じさせる彼女ではあったが、やはり誰にも弱みを見せられず気を張り続けなければいけない生活というのは負担が大きかったのかもしれない。
「ええと、じゃあその…………ゆっくり休んで」
そしてそういう事情が垣間見えてしまうと日陰も落ち着かないから早めに帰ってほしいとも言えない。人恋しくはあるがそれでも長時間プライベートスペースを侵されるのは勘弁してほしいなあというのが彼の本音だった。日にちょっとだけ顔を見せに来てくれる程度が日陰としてはちょうどいい感覚だ。
「ではありがたく。ふふ、わしのスペースを作っておいてくれて感謝するぞ」
「え、いや、うん」
前のような乱雑な状態は流石にと、ユグドがいない間に日陰は部屋の片づけを済ませていた。ゴミはまとめてクローゼットに押し込み、布団もきちんと畳んでユグドが落ち着けるように座椅子を置いたスペースを作っておいた…………無駄にならないようにと祈りながら。
「おっと、ゆっくりさせてもらう前に契約の報酬を払っておかねばな」
思い出したようにそう言うとユグドは腰に付けた革袋から先日貰ったものより大きめの水筒を取り出す。一本、二本、三本と続いて明らかにその革袋の容量を超えた数の水筒が出てきて日陰の目が丸くなる。さらにはそこから同様にあの焼き菓子が包んでいるのであろう木の葉の包みもいくつか出てきた。
「ああ、そういえば日蔭殿の世界にはこういった技術はないのじゃったな」
全て取り出し終えたところでユグドは彼の表情に気づいたようだった。最終的に彼女は水筒を五本に包みを五つその場に並べている。
「これは空間拡張の魔法で袋の内容量を広げてあるのじゃよ。もちろんそのままでは取り出しに困るので望んだものを手元に引き寄せるというような効果も持たせてある」
「それはすごい、便利だね」
日陰の知る限りの現代技術を集めても作れっこない代物だ。まさに魔法の袋だとしか彼には思えない。
「まあ作るのにそれなりの技術がいるからわしらの世界でもかなりの高級品じゃな…………もっともわしからすると異世界の技術で作られたこの部屋の品物もなかなかのものに見えるが」
初見から違和感なく接しているが、ユグドも彼女にとっての異世界の文化に興味があるような視線を方々に向ける。
「扱いが難しいのも、あるから…………触る時は声を、かけてくれれば」
「心得ておるよ…………まあ、とはいえそれはおいおいの。今日のところはまずゆっくりとさせてもらうとするさ」
やっと気を抜いて休めるという表情でユグドは日陰の設置した座椅子へと腰を下ろす。そうして安堵するその表情はようやく重圧から解放されたというもので…………それだけ彼女の置かれた状況の辛さがよくわかるようだった。
「ふむ、なかなか良い座り心地じゃの」
「ああうん、ごゆっくり」
そう答えながら日陰もとりあえずパソコンデスクの前へと腰掛ける。不可思議な状況に置かれてもなぜだか通電している目の前のパソコンは使用可能だが、その電源へと手を伸ばす気分にはならなかった。
現代社会において時間がある時に何もしないというのは多くの人にとって難しい。なぜなら現代においてやれることの選択肢は数多く存在し、時間があるのにそれをしないのはもったいないという気がしてしまうからだ。
そのため現代人というのは何もしないことに慣れておらず休むべき時に休めないという悪癖が付きがちだ…………しかし異世界のエルフの里で暮らしていたユグドはそうではないのだろう。
「…………」
しばらくすると座椅子に深く腰掛けて穏やかな表情で彼女は目を閉じていた。寝息のような息遣いでもないので眠っているわけではない、ただ目を瞑って穏やかに時間を過ごしているのだろう。
エルフと言えば森の木々と生きるイメージだし、ユグドは世界樹の巫女であるというのだからそれを体現していると言ってもいいかもしれない…………それこそただそこに在るだけで時間を過ごすというのは慣れたものなのだ。
「…………」
問題はそれで取り残されたような気分に日陰がなってしまっていることだ。もちろんユグドとの契約は彼女がこの部屋に数時間滞在することを認めることだけで、そこには別に彼と交流しろというようなものは含まれていない…………だから例えば彼女が彼をガン無視して部屋に居座っても咎める権利は日陰にはない。
「き、気まずい……………」
しかしそれが彼の本音だった。会話をするでもなく知り合ったばかりの他人がプライベートスペースに存在するというのはどうしても気になってしまう。
もちろん客観的に見れば日陰には時間を潰す手段はたくさんあるのだ。目の前のパソコンにはゲームがいくつも入っているし、電気だけではなくなぜかインターネットも通じているので既存のサイトを見ることはまだ問題なくできる。それ以外にも本棚には漫画や小説が入っているからユグドの邪魔をしないように時間を潰すことはいくらでもできるのだ。
ただ結局のところそれらは集中することで初めて楽しめるものである。部屋にいる他人を気にしながら気もそぞろにやったところで楽しめるものではない。
「…………」
あれだけ再びユグドがやってくることを期待していたのに、今はそれを疎ましく思う自分に日陰は自己嫌悪する…………だがそれはそれとしてやっぱり早く出て行ってくれないかなあと思ってしまう自分も抑えられない。
そういったことの割り切りは他者との交流によって育まれるものだが、孤独はその成長をマイナスにしていく。孤独な引き籠り生活の間に日陰の対人能力はこの程度のことを我慢できない程度には衰えていた。
「日陰殿」
目を閉じたまま、静かな声でユグドが口を開く。
「落ち着かぬ思いをさせていることを申し訳なく思う」
「え、いや、そんな……………」
不意の謝罪に日陰はしどろもどになる。否定しようとしてしきれていないのはやはりその対人能力の衰えゆえだろう。
「わしのほうにも引けぬ事情がある、と開き直るつもりはない…………しかし現状では日蔭殿の好意に甘えるしかないのも事実じゃ。この恩はいずれ返す故しばらくの間大目に見てはくれぬかのう」
「…………」
あくまで下手に、大人の対応を見せるユグドに日陰は部屋の片隅に先ほどまとめておいた水筒と木の葉の包みへと視線をやる。それはこの部屋の中で詰んでいた彼に与えられた生への希望…………客観的に言ってみれば立場が上なのはユグドのほうだろう。
交渉の時にも指摘された通り、彼が生きたいと思っている限りは彼女による供給が必要になるのだから。
「気にしなくて、いいから」
そんな殊勝な態度を見せられては日陰も少しは男気を見せるしかない。
できる限りユグドを意識しないようにして、ただひたすらに時間が過ぎることを祈った。
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