四十二話 何もかもわかればいいというものでもない
日陰が引き籠りを始めたのは高校生活も半ばの頃だったから最低限の学はある。人間は呼吸をしなくては生きてはいけないし、呼吸すれば吐き出された空気の中にある酸素などの成分は人体に取り込まれて消耗する…………だから密閉された空間で人が呼吸し続ければいずれ空気中の酸素が少なくなって人は呼吸もままならなくなる。
そして日陰の引き籠っていたこの部屋は知らない間に世界と世界の狭間とでもいうべき場所に迷い込んでしまっていたらしい…………それはつまり外界と遮断されたということだ。ユグドや冥利の世界のように異世界と繋がってはいるものの、扉や窓を開けない限りそこから空気が入り込んでくるということもないだろう。
「…………なんで、僕は生きてる、んだ?」
だからそんな疑問が浮かんでくる。
「そこはほれ、世界樹があるからの」
「あ、そうか」
世界樹はその周囲に生物が生存可能な領域を作る。それは水食糧だけではなく大気や日光などまで含まれるのだ。元々植物というものは人の吐いた二酸化炭素を酸素に戻す働きもあるのだし、世界樹が根付いているのならこの部屋が生存可能な環境を保っていてもおかしくはない。
「あれ、でもその前、は…………?」
世界樹はずっとこの部屋にあったわけではない。けれど日陰はその前からずっとこの部屋にいるのだ。いくら一人で酸素の消費量が少ないからと言ってもそう持つものではないはずだ。
「えっと、僕は…………いつから」
どれくらいああして一人でいたのか日陰は思い出せない。果たしてこの部屋はいつから世界の狭間に迷い込んでしまっていたのだろう。ユグドがこの部屋にやって来たあの日に繋がったのであればそれほど時間は経っていないことになるが、そうでない気もするし…………そうであったとしてもこんな小さな部屋の酸素なんてすぐになくなってしまうのではないだろうか。
「それはほら、どこかから空気も供給されてるんじゃないのかい?」
「どこかからって…………」
そんなものどこからかやって来るようなものではないはずだ。
「でも電気やインターネットとかはどこかから来てるじゃないか」
「あ」
言われてみれば確かにそうだったと日陰は思う。この部屋はなぜか電気が来ているしインターネットも繋がっている。考えてみればそれはどこかから空気が流れ込んでくることよりもありえないことなのだ。
「…………確かに考えてみればそうかも」
電気やインターネットが供給されているのだから空気が循環していても不思議ではない。
「でもなんでなんだろう」
「日陰殿」
そもそもの疑問を抱く日陰の思考を止めるようにユグドが呼ぶ。
「世の中には考えても仕方のないことというものもある。理由がわからずともそれでうまく回っておるのなら下手に手出しせぬほうが良いことも多い…………わからぬものに下手に手を出せばわからぬままに崩壊してしまうかもしれぬからな」
「…………そっか」
そういうことも確かにあるなと日陰は納得する。この部屋の現状は彼の理解を超えているものなのだし、それを下手に理解しようとして行動すれば破綻する可能性はある。
「あ、ユグドちょっといいかな」
そんな二人に口を挟むように冥利がユグドへと声をかけた。
「ふむ、構わぬが」
「ありがとう。でもここではちょっと話難いことでさ」
「…………では日蔭殿、先ほど気遣ってもらったばかりで申し訳ないのじゃがわしらは少し席を外すぞ」
「あ、うん……どうぞ」
先ほどは変に気を遣われるのも嫌で二人を引き留めただけで、何か二人で話したいことがあるのならそれを止める理由もなかった。
「話にそんなに時間はかからないから」
それだけ前置いて冥利はユグドを連れて部屋を出ていった。
◇
「それで、話とはなんじゃ?」
二人が移動したのはクローゼットの中の世界樹の領域だった。別に冥利の研究室でもよかったのだが、あちらは出入りの際に安全のための警告が流れる仕様なので一々煩いかと思ったからだ。
「いやね、今の話なんだけど…………あたしの考えとしてはわからないものを放っておくのは怖いわけなんだよ。だってわからないままであれば何か不都合が起こった時にどうにもならないからね」
そうなった時に調べてもすでに自体が致命的であっては意味がない。事前に把握しておくことで初めて予防できるものというのも存在するのだから。
「それならばあの場でそういえばよかろう」
「いやだって、君がそんなリスクに気づかないはずないじゃないか」
冥利の知る限りユグドは聡明だ。そうでなければいくら根幹となる法則が同じであろうが異世界の技術に対してすぐに理解を示すことができるはずもない…………そんな彼女があえてそのリスクに目を瞑って日陰を誤魔化したというのなら何か理由があると冥利は思ったのだ。
「だから君は彼に自分の力を自覚してほしくないのかと思ったんだけど…………考えて見るとその自覚を促してもいるんだよね」
日陰があの部屋と異世界を繋げるような力を持っているのは冥利も確信している。彼自身は自分に何の力も無いように思っているようだが、今回ユグドの世界へと繋いだ扉の位置を変えて見せたことでそれは確信となった。そしてその行為それ自体はユグドが日陰ならできると保証していたものだ。
「まあ、確かにわしは日陰殿にその自覚を促してはおるし、同時に自覚しすぎないように気を遣ってもおる」
「それはなぜか聞いても?」
「わしというかわしらの影響をあまり日陰殿に与えたくない」
「ふむ」
その言葉の意味をかみ締めるように冥利は顎に手をやる。
「正直に言えばわしも日陰殿に甘えすぎておった。わし自身の事情もあったがその人の良さに付け込んで無かったかと言われれば嘘になる」
「まあ、それはあたしも同じだけどね」
冥利に至っては対価もなく彼の善意に甘えて押し掛けた形だ。
「日陰殿がわしらとの同居を不快に思うのは本能的な拒否反応じゃ…………それはつまり日陰殿が自身の力を自覚しつつあるというかその力が強くなっておる結果じゃろう。それであれば少なくとも日陰殿が落ち着くまでわしらはこの部屋を離れたほうが良い」
「だからあたしの案に乗ったのか」
正直に言えば冥利の出した魔族を爆弾で吹き飛ばすという案は半分くらい冗談のつもりだった。不謹慎な話ではあるがそんなことをさせるくらいならと日陰が妥協してくれることを期待していたのだ…………しかしユグドがそれに乗ったことで決定事項になってしまった。
「魔族に対する恨みがあるのは間違いないがの」
長い歴史の中で恨みもあるし、直近で里を滅ぼすことになった恨みもある。
「まあ、あたしとしては日蔭君との交流が途絶えなければそれでいいよ…………そのつもりはないんだろう?」
「もちろんじゃ」
ユグドは頷く。
「日陰殿も別にわしらを嫌っておるわけではない…………ただ今は、適切な距離が必要だというだけじゃよ」
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