四十一話 当たり前過ぎると気づかない
「日陰殿!?」
慌てたようにユグドが叫び日陰の襟首を掴む。体格的には彼よりもユグドのほうが小さくはあるのだが、掴んだその手は見た目に寄らぬほどの力を発揮して吸い出されそうになった彼をしっかりと引き止めた。そのまま彼女自身も日陰と一緒に吸い出されそうになるのを扉脇の壁に足をかけて堪える。
「冥利殿!」
「わかってるよ!」
冥利の名を呼ぶと共にユグドは勢いよく日陰を部屋へと引き戻し、それを見計らって冥利が部屋の扉を閉める。日陰は何が起こったのかわからないという表情で床へとへたり込み、その後ろでユグドが安堵したように息を吐いた。
「いやはや気圧差のことを忘れるなんてあたしも気が抜けていたよ」
空気は気圧の低い方に移動する性質があり、そして基本的に空の上というのは気圧がとても低い。そしてこの部屋は普通の気圧であるわけで空よりは高い気圧で、つまるところその二つを繋げば気圧差によって部屋の中の物が空気の移動に巻き込まれて吸い出される。
そういえばそんな光景を飛行機事故の映像なんかで見たことがあったなと、薄ぼんやりとした頭で日陰は思いだした。
「部屋もずいぶんと荒れちゃったねえ」
部屋全体の空気が吸い出されようとしたためか日陰の部屋は物が散乱してしまっていた。幸いというか不思議と吸い出されたものはない。パソコンなどはデスクに固定していたこともあって倒れることもなかったようで、破損してしまったものもなさそうな様子だった。
「まあ、それは責任もってわしらで元に戻すとしよう」
それはそれとして、とユグドは日陰を見る。
「結果はともかく繋がりはしたの」
ユグドの里があった場所ではなく違う場所のそれも上空へと扉は繋がった。
「で、でもどこの空の上かは、わからない、よ」
「そうじゃな、しかしそれは確認できる」
再び扉を開けて下を覗けばいいだけだ。正直に言ってしまえばユグドも冥利も魔族の拠点がどんな場所かその見た目も知らないが。そこが拠点の上空であるなら何かしら見えるものがあるだろう。
「いやでも、開けたら危ない、し」
「それはあらかじめわかっておればどうにでもできる」
先ほどは突然のことに焦りもあったが、予めわかっているならユグドの魔法でどうにでもなる。気圧差で空気の移動が起こらないようにするくらい彼女にとっては簡単だ。
「それならあたしの手持ちのドローンを送り出そうか。数はないけど光学迷彩機能も付いているやつだから気づかれずに辺りを調べられるよ」
「しかしそれは遠隔操縦とやらが必要なのではないか?」
それだと扉を開けっ放しにしておかねばならないリスクがある。もちろんその間気圧差を防ぐ魔法を維持し続けることは簡単だが、その魔法を察知されてしまうことによって扉が発見されるリスクがある。
「ああそれは大丈夫。直接操縦しなくてもあらかじめ指示を与えておけばそれに沿った行動をしてくれるから」
「えーあい、とやらじゃったか?」
「そうそれ。一時間くらい下を調査したら戻ってくるように設定すればいいでしょ」
何事もなければ一時間後に扉を開いて回収すればいいだけだ。もちろん見つかって破壊されるようなことがあればあちら側に警戒されることになるが、流石に魔族の拠点かどうか確認もせずに爆弾を放り込む真似もできない。
「わしは賛成じゃが…………」
ユグドの視線が日陰へと向く。
「べ、別に僕も構わない、けど」
それで日陰自身にリスクがあるわけでもない。
「ではそうするか」
そういうことになった。
◇
「いってらっしゃーい」
冥利がミニチュア研究室から持ち出してきたドローンは両手に一抱えで収まるくらいの球体だった。どうやらそれが展開して飛行状態になるらしいのだけど、その過程を日陰が見ることなくそれは扉の外へと放り投げられた。ユグドが事前にかけた魔法のおかげで今度は以前のように扉を開けても空気が吸い出されるようなこともない。
「じゃ、後は待つだけだね」
扉を閉めて冥利が告げる。実際他に三人ができることなどない。
「では各々適当に時間を潰すか?」
「んー、何かするにも中途半端な時間だけどねえ」
一時間後にはドローンは戻ってくる。その一時間というのは時には長くもあり時には短くもある時間だ。何もしなければ長く感じるけれど、何かをしていればあっという間で短くも感じてしまうくらいのもの。
「しかしほれ、日陰殿にあまり負担をかけるのもよくなかろう?」
「それもそうか」
納得したように冥利も頷く。
「それじゃああたしたちは席を外すよ」
「あ、いや…………別に、いいよ」
席を外そうとする二人を日陰は引き留める。
「これくらいなら、気にしない、し」
「そうか?」
それならばとユグドと冥利は腰を再び下ろす。実際問題二人はすぐに戻ってくるのだし、それにびくびくしながら部屋で過ごしていてもどうせ落ち着かない。
「…………」
「…………」
「…………」
しかし何か会話するわけでもなく三人は押し黙った。
「そ、そういえば、さ」
その空気に耐えられず日陰はなんとか話題を絞りだす。
「さっきって、この部屋の空気が、吸い出されたん、だよね」
「そうじゃな」
「そうだね」
二人は頷く。
「この部屋の空気が、なくなったり、しないのかな?」
「…………今更日陰殿がそれを聞くのか」
「えっ」
少し呆れるようなユグドの視線に日陰は戸惑う。
「そもそも、この部屋の空気はどこからやって来ておると思っておるのじゃ?」
「え、それは…………」
答えようとしても彼には答えられない。空気なんてただそこにあるものだ…………しかし考えてみればこの部屋は外界と切り離された空間だ。窓もあるがそれは開いておらず空気などの入り込む余地はない。そして循環されない空気は次第に澱んで人にとっては吸えば毒となるものだ。
「…………あれ?」
そんな空間に、いったい自分はどれだけいたのだろうかと日陰は今初めて疑問に思った。
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