二十一話 たったそれだけが難しい
背筋が凍りついて喉がひどく乾く。窓のガラスを叩くノック音。たったそれだけでユグドのおかげで軽くなった気分もどん底へと落ちてしまったようだった。日陰はその場から身動きすらできずに紺色のカーテンで覆われた窓を凝視する…………それ以外に何もできないししたくもなかった。
「誰か向こうにおるようじゃの」
ただこの場にいるのは彼だけではない。ユグドからしてみればこれはその言葉通りの現象に過ぎなかった。窓の向こう、彼女のいたのとは別の異世界と窓は繋がっていてその向こうから誰かがノックしているだけ。何の緊張もない。
「応じぬのか?」
「…………」
尋ねるユグドに日陰は答えられない。自室の扉は安全だ。開けたところで繋がっているのは安全の確保された自宅の廊下なのだから…………けれど窓は違う。窓の向こうは外だ、外に繋がってしまっている。たとえその向こうは元の世界ではなく別の世界に繋がっているのだと言われたところで開けたくなんかないのだ。
「異なる世界の人間であれ接触する価値はあると思うがの」
日陰が窓を恐れているのはユグドも理解している。ただその理由に関しては彼が語りたがっていなかったようだから尋ねていない。ただこれは彼女の老婆心ではあるが向き合うのならば早めのほうがいいと彼女は考えている…………時間が経てば、それこそ忌避感が増して向き合えなくなるものというのもあるのだから。
「に、人間じゃない…………かも」
「それはわしのようなエルフであるかもということか?」
「そ、そうじゃなくて…………」
「つまり怪物がおるかもと?」
「う、うん」
日陰は躊躇いがちに頷く。
「しかし怪物がノックをするものかの?」
「ノックじゃなくて、たまたま規則的にぶつかってる、だけかも…………カーテンを開けたら、こっちに気づかれる」
「なるほど」
ユグドは理解する。日陰の外への恐怖の源泉はつまりそれなのだ。
「ではわしが開けるか」
「えっ!?」
「日陰殿、その怪物はドラゴンより強いのか?」
冗談を口にするようでもなく、ただ事実を尋ねるようにユグドは彼を見る。
「ド、ドラゴン…………?」
「ドラゴンくらいならわしは倒せる…………まあ、今は少し弱体化してはおるが」
世界樹の巫女であるユグドの力は世界樹の状態に左右される。苗木の状態である今は全盛期よりもかなり弱体化しているが、それでも並の怪物に負けることはない。ドラゴンも種類にはよるだろうがなんとかいけるだろう。
「ドラゴンよりは…………ずっと弱い、けど」
「ならば恐れることはない」
頼ってよいのだとユグドは言い切る。
「で、でも…………感染、したら」
「ふむ、そういう手合いか」
戦闘力ではなく別の能力が厄介なタイプ。感染して何が起こるのかはユグドにはわからないが、それが彼女にとって異世界のものであることを考えると感染すればユグドにはどうしようもない可能性はある。
「触れねば良いのならいくらでも方法はある…………特に披露する機会もなかったがわしの世界はそちらの世界で言うところの剣と魔法のファンタジーの世界じゃからな、わしも当然魔法を使えるんじゃぞ?」
これまで披露しなかったのは日陰と敵対しておらず使う必要がなかったのと、彼の世界に魔法が存在しないことから警戒心を抱かせないためだ。剣や銃などの道具と違って魔法はその身一つで引き起こせる現象だ。取り上げることのできない凶器を持った相手と認識されてしまえば、例え友好関係にあっても一線を引かれてしまう可能性があった。
「じゃからわしに任せるとよい…………日陰殿だっていつまでもそのカーテンの向こうに怯えておりたくはないじゃろう?」
「それは…………」
日陰だって嫌だ。嫌に決まっている。そこに在るものをないと思い込んで生きていくなんて嫌に決まっている。誰だってちゃんとまっすぐ前を向いて生きたいのだ。
「なに、わしにとってはただのカーテンと窓じゃ。何の気後れもない」
この部屋はすでに日陰の元いた世界と繋がっていない。それはユグドが確信している事実なのだ。で、あればこの窓の向こうに彼の想像するような危険はない。もちろん別の危険がある可能性はあるが…………恐らくそれもないだろうと彼女は踏んでいる。
日陰にとって無害で有益な存在である自分の近くに扉が現れたように、恐らく無作為に世界と繋がっているわけではないとユグドは思うのだ。
そして仮に、そう仮に危険があるのだとしても自分であればどうにかできるとユグドは思っている。それは別に虚勢でも何でもないのだから。
「もちろんこの部屋の主は日陰殿で選択権も日陰殿にある…………しかし止めぬのならばわしは勝手に開ける」
宣言して、彼女は窓へと歩み寄ろうとする。
「ま、待って…………」
その背中を日陰は引き留めた。
「あ、開けるなら…………僕が開ける、から」
しかし彼は止めるのではなく別の選択を示す…………ただその表情は決意を固めたそれではない。心底嫌そうで、怯えていて、できることなら逃げたいと思っている顔だった。
だが、彼は口にした言葉を撤回はしなかった。
青ざめた顔で、よろけながら、それでも一歩一歩窓へと歩み寄る。
「くふふ、日陰殿もの男の子じゃのう」
嫌で嫌で仕方なくて決意もできているわけじゃない。それなのに虚勢を張る理由なんて男の意地以外にありはしない。理性はユグドに任せる方が正しいのだとわかっていても、彼女に情けないところを見せたくないとなけなしの勇気を絞り出すさまはとても微笑ましかった。
「何かあればわしがすぐさま助けに入ろう。日陰殿はただそれを開くだけでよい」
で、あればその背中を支えるのは彼女の役目だ。例え日陰の想像通りの光景がその先に広がっていようがユグドは彼に傷一つ付けさせはしない。
「う、うん」
そして背中を預かられてしまったらもはや日陰も後ろには下がれない。相変わらず喉はカラカラだし冷や汗も止まらないが、震える指先でカーテンを掴む。当然ゆっくりなんて開けていられない。勢いのままに一気に開くしかなかった。
バッ
覚悟が決まったのかただの自棄か、勢いよく日陰はカーテンを開いた。日陰もその時点では気づいていなかったが、ノックの音は結構前に止まっていた…………しかしもう関係は無い。
「……………!?」
日陰の想像していた荒れ果てた光景はカーテンの向こうにはなかった。真っ白で、見慣れない機械の並べられた部屋が窓の向こうには広がっていて…………その中に白衣を着た女性が一人立っている。彼女はこちらに気づくとにこやかに片手をあげて口を開いた。
「hぢあhじぇあでぇああえ^ぱ^ddじゃおあ」
そして全く理解できない言語が、窓を伝わって日陰の耳へと届いた。
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