二十話 人間暇になると余計なことを考える
ユグドとの価値観の相違は解決したし、最後に提案された温泉が何もかももっていった。異世界のエルフであるユグドはどうか知らないが日本人である日陰にとって温泉とは特別なものだ。お風呂自体が毎日入らないと落ち着かないものであるのに加えて温泉はその上位互換。それに毎日入れるようになるのだとすれば久方ぶりに気分も上向くというもの。
「温泉かあ…………楽しみだなあ」
世界樹の成長により取得する力を先に決めておくという話だったから、温泉にすぐに入れるようになるわけではない。まずは水と食料、温泉はその後にという話だった。水と食料に関しては手持ちの食糧がなくなるまでには生み出せるようになるはずとのことだったけど、エルフの食糧は量に対して日持ちするものが多いから日数にするとそこそこ先の話になるだろう。
「水は、川ができるって言ってたっけ」
まず世界樹を中心として川が流れ、その脇に果樹が生え育つ予定だとユグドは言っていた。クローゼットの中の話だと考えると違和感がすごいけれど、あの広がった空間を見てしまうと納得できてしまうのが異世界クオリティだ。
「それだけ水があるなら…………沸かせばとりあえず風呂に入れる?」
ネットショップでアウトドア用品を検索しながら日陰は呟く。ガス湯沸かし器は当然使えないが室内なのに屋外というクローゼットの状態であればドラム缶風呂などの選択肢もある。水が豊富に手に入るなら温泉ができる前に風呂に入れる方法はあるのだ。
「…………どれくらい入ってなかったっけ」
ふと考える。落ち着いて風呂に入れるような環境でも精神状態でもなくなっていたから彼は風呂について考えることをしなくなっていた。入らなくても特に匂いは気にならなかったし体に不調を覚えなかったのも大きい。温泉とユグドに言われるまで日陰は完全に風呂のことなんか忘れていたのだ。
「まあ、いいか」
考えても仕方のないことだと日陰はその疑問を思考の隅に追いやる。そんな日数なんて確認できたところで嫌な気分になるだけだろう。
「…………しかしお風呂に、温泉か」
見ていたインターネットのページを閉じて日陰は椅子に背中を預けて天井を見上げる。本の一月ほど前まで水と食料がなくなることに不安を覚えていたというのに、気が付けば命の危険を脱してそんなことに期待できる余裕が生まれてしまった…………それはとても良いことだともうけれど、ふとした疑問も浮かんでしまった。
「これからなにをすればいいんだろうか」
これまではただ引き籠ったまま生きることが目的だった…………正確に言えば限界まで生きることだ。あの閉じた空間ではいずれ限界が来ることはわかっていたけれど、だからと言ってその限界を打破する努力を彼はしなかった。この部屋の中でやれることだけをやりつくして死ぬことを半ば受け入れていたのだ。
だが、今は違う。
ユグドから水と食料を提供されて飢えで死ぬことはなくなった。なぜか使えるインターネットで必要なものや娯楽を買うことだってできる。怪我はしないかもしれないが、何かの病気にでもなって倒れない限り死ぬ危険は限りなく低くなったと言っていい…………いや、もしかしたら病気だって世界樹の力で何とかなる可能性もある。
死なない生活。それは素晴らしいことで、元のあの世界を思えばとても贅沢だ。しかし日陰の限界まで生きるという目的はその限界がなくなったことで果たされてしまった…………目的がなくなったことに今彼は気づいたのだ。
「…………」
人間は漠然と生きるよりも目的があったほうが精神的に安定する。気づいてしまえばこれから自分は何をすればいいのだろうという不安が胸の奥から湧いてくるようだった…………例えばこれで生きるための食糧確保が大変であれば話は別だったろう。それを手に入れるための努力で他のことを考える余裕なんてない。
しかし現状で必要な水と食糧は日陰が努力せずとも湧いてくるようなものだった。
もちろん高尚な目的なんて考えずに遊んで暮らしたっていいはずではある。実際に日陰は生きることを目的としつつも、その限界から目を逸らすためにゲームを遊んだりしながら残りの水食糧を食い潰していたのだから。今なら手元にない娯楽だってネットで購入して楽しむことができるだろう。
「うう」
ただ、こういう気分の時にはマイナスの思考が浮かんでしまうものだった。遊んで遊んでそれで気持ちを誤魔化して…………一生遊び続けることができるのか? 今はまだ大丈夫でも手に入るもの全てに飽きてしまったらどうするのだろう? そんなことが延々と浮かんできてしまって遊ぶ気分になんてなれない。
コンコン
気が付けば気分が落ち込み始めていたところにクローゼットからノック音。応じるとそこからユグドが顔を出す。そしてすぐに彼の表情に気づく。
「ん、日陰殿はなぜそんな暗い顔をしておるのじゃ?」
◇
いつものように水と食料を届けに来たユグドに日陰はふと抱いた不安を説明した。窮地だったところから衣食住が足りるようになったことによる空白感。これから何をして生きていけばいいのかわからないという不安。
口にして彼女に説明すると何を自分は贅沢なことを言っているのだろうと日陰は恥ずかしくなってきた…………目の前の少女に見えるエルフは永い時をかけて育んできたものを全て失って立て直し始めたばかりなのだ。そんな彼女を前にやることが思いつかなくて不安とかふざけた話に思える。
「くふふ、日陰殿もまだ若いのう」
けれど当のユグドはそれに起こるでもなく微笑ましく彼を見る。
「わ…………若い?」
「うむ、それは若者の誰もがいつか抱く疑問よ…………自分は何のために生まれたのか、これからなにをして生きていけばよいのかとな」
それはエルフであっても変わらないとユグドは言う。意思と知恵のある生き物であればいつか必ず通る疑問なのだと。
「しかしのう、そんなものは決まっておる…………生きることじゃ。生物の目的など生きて増えること以外にありはせぬ。それ以外のことなどその本来の目的を果たしたうえでの余禄に過ぎぬのじゃよ」
「よ…………余禄?」
「うむ、ゆえにやりたいことがあるならやればよいし、無いならあえて何もする必要などないのじゃ」
生きる、という最優先の目的は果たしているのだから。
「そも果たすべき目的があるならそう悩まずとも思い浮かんでおるものよ。それならば無理に悩まずとも泰然としておればその内目的の方からやってくるのではないか?」
「そ、そういうものかな?」
「うむ」
はっきりとユグドは頷く。
「下手に思い悩めば至高の袋小路に嵌って必要のない目的を立てるようなことにもなりかねぬぞ? それで現状を悪化させては本末転倒であろう?」
「必要のない目的…………」
「例えばじゃが…………この部屋を日陰殿の元の世界に戻す、とかじゃな」
「!?」
「日蔭殿のような状況に置かれれば本来真っ先に思い浮かぶべき目的じゃが、日陰殿は目的にはしておらぬだろう?」
「それは…………」
日陰だってそのことを全く考えなかったわけではない。この部屋が元の世界から切り離された直後には水と食料の問題もあって扉が元の世界の廊下に繋がることを願ったりもした…………ただユグドと出会って水と食料の問題が解決してからは彼女の言う通り。元の世界に戻りたいなんて欠片も考えはしなかった…………それこそ目的がないと不安を覚えてからもだ。
「目的など探すのではなく自然と定まる程度でよいのじゃよ」
「な、なるほど…………」
流石に長く生きているだけあって人生観がしっかりとしていると日陰は思う。
「日蔭殿もあまり思いつめず気楽にしておればよい…………別になにかをせねば生きられぬような状況ではないのだからな」
「それもそうだね」
確かにその通りだと日陰は気持ちが楽になる。切羽詰まった状態でもないのだから、下手に動く方が状況を悪くすることだってある。
「ならまず積んであったゲームでも…………」
しかし二人は一つ忘れていた。
コンコン
ノックが響く。扉でもクローゼットでもなく、カーテンで閉じられた窓の方から。
目的があろうがなかろうが、状況は勝手に変化するものであるのだと。
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