一話 異世界の方からやって来る
「は?」
倉籠日景は今や多くの人がそうであるようにごくごく普通の引き籠もりだ。その自室は平凡な一軒家の中の二階の一室であり、その扉を開ければ当然そこに見えるのは他の部屋や一階へと繋がる廊下…………廊下のはずだった。
「も、森?」
しかしそうとしか呼べない光景が扉の向こうには広がっていた。先端の見えないほど高く生い茂った無数の木々に積み重なった腐葉土。そしてそれが幻覚でないことを示すように部屋へは濃密な緑の臭いが流れ込んでくる。
「え? え?」
わけがわからなすぎる。確かにここ最近の世界では現実とは思えないような出来事が立て続けに起こってはいたが…………これは方向性が違う。明らかに物理的に起こりえないことが起こっている。
「…………」
とりあえず日景は扉を閉めた。そうすればそこにあるのは見慣れた扉だけ…………しかし部屋に入り込んだ森の香りはまだ残っている。その香りが今の光景が幻覚ではなく現実であったのだと訴えているようだった。
しかし理性はそんなことはありえないと現実のほうを否定したがっている。
「…………寝よう」
きっと何もかも睡眠時間が足りていないせいだ。もちろんそんなこと関係ないことはわかっているが、それで現実に向き合えるようなら引き籠もりになどなっていない。例えその先が行き止まりだとわかっていても逃げる道があったら飛び込むから引き籠もりなのだ。
「起きたら、きっと扉の向こうは、廊下だし…………外も安全で、きっと普通の生活をみんな送って、いるんだ」
眠る前のおまじないのように呟いて日景は布団の中で目を瞑る。外で何が起きていようと彼が引き籠り続ける限りそれは確定していない現実だ…………だから日景は多分衰弱死するその日まで引き籠もりを辞める事は無い。現実を確定させるだけの勇気が彼にはもう残っていないのだから。
「…………腹、減った」
しかし自覚した空腹は容易に眠る事を許さなかった。その空腹から来る倦怠感に抗えなくなったらいよいよ限界間近という事になるが、幸いというか不幸というか今の彼にはまだそれを不快と感じるだけの体力が残されている。
「あぁ」
呻いて適当に布団から手を伸ばすが、ないものが湧いて出るわけでもない。それならばせめて水でもとペットボトルを手に取るが、そこに残された水すらも残り少ないという現実を突きつけられた…………水、空腹はともかく喉の渇きは不味い。人は飢えにはそれなりに耐えられるが水無しでは三日程度しか耐えられないという…………つまりその苦しさも空腹の比ではないのだ。
「水、水はまだたくさん、あったはず…………」
部屋に持ち運んだ一箱はほぼ飲みつくしてしまったが、台所にはまだ未開封の箱がいくつか積んである。今思えばまとめて部屋に移動させておくべきだったと思うけれど、往復して運ぶには自室を何度も出なければいけない…………それが嫌だったのだ。
「…………」
身体を引き摺るように床を這って布団から扉の前まで行く。開けたくはないが開けないわけにもいかない。日景は引き籠もりではあるが苦しみたくないから引き籠もったのだ。少しでも長く快適な引き籠もりをするためならば多少の勇気も出せる。
「…………さっきのは、きっと何かの、間違いだ」
この上ない現実味があったけど、現実的に考えればあんなことは起こらない。それはつまりさっき見たのはやはり夢幻で、この扉の向こうにはいつも通りの廊下が広がっているという事なのだ…………そうに決まって、なかった。開いた扉の向こうはやはり森だった。
「…………」
無言で再び扉を閉じてまた開けて、やはり森で閉じる。なんでそんなことになっているのかは相変わらずわからないが、とにかく扉の向こうが森になっている事だけはいい加減に認めなくてはならなかった…………振り返り、遮光カーテンに閉ざされた窓を見やる。それでもその向こうにどんな風景が広がっているかを確認する勇気までは無かった。
「森なら…………水場は、あるよな」
あるはずだ。つまりよくわからない事態ではあるが最悪ではない。更に見た限りでは森の様子は緑が生い茂っていて冬というわけではなさそうだ…………木の実などの食糧確保ができる可能性もあるだろう。
もちろん森には野生動物などの危険がある…………あるが。
「ゾンビよりは…………マシだ」
ドア脇に立てかけてあった木製のバットを手にとって呟く。現実的に見ればゾンビよりも野犬の方が厳しい…………というか野犬相手にバットじゃ牽制にしかならないだろう。それでも精神的な面からすれば相手にするのは野犬の方がだいぶマシだ。
「ええと、リュックは、どこにやったっけ?」
水汲み用に何本かペットボトルを持って行く必要があるし、食料を見つけた際に運ぶためにも必要だ…………森に出るのはあくまで必要に駆られてであって自室には必ず戻るつもりであるのだから。
「いや、そもそも戻れるの、かな」
リュックを探そうとしたところでそんな疑問が頭に浮かんで手が止まる。扉の向こうに広がる別世界へと足を踏み出し、後ろで閉まった扉が消えて戻れなくなる…………そんな物語は珍しいものではない。多くの主人公たちは新たな世界に希望を抱いてそんなことは気にも留めないが、彼の場合は違うのだ。戻れないのは困る。
「…………」
扉に目を向けて手を伸ばそうとし、その手が力なく垂れる。一見すれば扉の向こうに広がる森は元の外よりもマシなように見えた…………だけどそう見えただけだ。そこに出て行って実際に歩いてみればより最悪な世界かもしれない。その可能性を彼は恐れた。
「あー」
もう考えるのも嫌になって彼は布団へと倒れ込む。見上げた天井は薄暗く、そこだけはこんな風になる前と何も変わらない…………このまま自分は乾いて死ぬのだろうかと頭によぎるが再び立ち上がる気力は湧かなかった。
コンコン
そんなノック音が聞こえてきたのはそれから何時間か経ってからだったか。最後の水も飲み切って喉にかすかな渇きを覚え始めていた頃だ。
「…………」
眠れるような心境ではなかったから寝ぼけてはいない。間違いなく彼の耳にはノックの音が聞こえた…………そんなものなどいるはずないのに。もしもいるとすればそれこそ彼に命の機器が迫っているという事で、そうでないのならあの森の世界から訪問者という事になる。
「だ、誰?」
死者に語り掛けてはいけない。それでもつい彼は尋ねてしまった。
「あえふhのあふぇhなええgふぁgヴぉえあじぇおいあげj」
そして明瞭でない返答に尋ねたことを後悔した。さらに続けて聞こえたドアノブに手を掛けて捻る音。扉を抑えなくてはと慌てて起き上がるが間に合うわけもない。
ガチャ
とドアが開く音が彼には破滅の足音のように聞こえた。
「あー、やっぱり神域だー」
しかしそこから現れたのは想像したような人のなれの果てではなく、小学生程にも見える小柄な少女の姿だった。こざっぱりとした絹のような銀髪に透き通るような白い肌。端正なその容姿には楽し気な笑みが浮かび、まるでファンタジーに出てくる巫女のようなひらひらの多いその服が感情に合わせるようによく揺れる…………そして何よりも目を引くのがその耳。長く尖ったその耳はまるで架空の存在であるはずのエルフのようだった。
「あなたがこの神域を統べる神様ですかー?」
無邪気とも言える声色と笑みで少女が尋ねて来る。しかし彼はそれに気圧されように後ずさって言葉が紡げなかった…………状況に頭がついて行かない。エルフのような少女が突然現れたのも衝撃ではあったが、そもそも生者との会話そのものが久しぶり過ぎて言葉が出てこなかった。
「お返事くれないと寂しい…………やめよ」
媚びるような声色が不意に重く叱りなれた声色へと変わる。
「この場を神域と感じ取ってなぜその主と思しき相手にそのような口をきくか…………全く、創って数十年程度の人格とは言えはいりょ思慮が足らな過ぎる」
呆れたように呟くその表情には自嘲も含まれているように見えた。最初に見たときにあった溌剌さというか無邪気さももはやそこにはなく、外見は変わらないのに今や老練の雰囲気を漂わせている…………その視線が日陰へと向けられた。
「先ほどは失礼しました。あなた様はこの神域の主と見受けられますが、こちらの事情を説明させて頂く前にまずこの場に滞在する許可を頂けないでしょうか」
「え、ええと」
いきなり丁寧な敬語となった少女の要求に日陰は戸惑う。この部屋は彼女の言う通り彼にとっては神域といってもいい場所だ。ここにいる限り日陰は外部からの危険を気にする必要もない…………そう信じこもうとしていたのだから。勿論それがなくても彼のプライベートな空間だから一時的にでも他者を入れることには抵抗がある。
それでも即座に拒否してしまわない程度には日陰にも理性は残っていた。現状は彼の知る以上の何かが起こっているのは明らかで、目の前のよくわからない少女はそれを説明してくれる可能性のある唯一の存在なのだ。ここで彼女を拒否してしまえば状況が完全に詰んでしまう気がしていた…………諦観の境地にはあった彼ではあるが希望に繋がる何かが現れたとなればそれなりの判断力だって戻ってくる。
「す、少しなら」
「感謝いたします」
恭しく頭を下げる少女に日陰は周囲を見回す。
この部屋に人を招くことになるのは、いったい何年ぶりだっただろうかと。
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