十話 話すと勝手に解決されたりする
「ちょ、大丈夫!?」
いつもより少し早い時間にユグドからのノックがあり、開けてみれば肩を抑えて苦し気な表情を浮かべた彼女の姿があった。普段より少し早い来訪に最初は若干の不満を覚えていた日陰だったが、そんな彼女の姿を見れば流石にそんな感情も吹き飛んだ。よく見れば彼女の抑えた手の下からは赤いものが滲み出ている。
「なに、大したことはないよ」
「え、いや、でも」
日陰を安心させるようにユグドは笑みを浮かべて見せるが、痛みの上に重ねたその表情はとても痛々しい。むしろ彼がいるせいで無理をさせているようで申し訳なささえ覚える。
「えと、あれだ…………救急セットがある、から」
とにかく手当てをと日陰はどこかにしまったはずのそれを探そうとする。
「ああよいよい。落ち着いた場所にさえ来られたなら手当は自分でできる」
そんな彼を止めてユグドはいつもの定位置である座椅子へと腰を下ろした。
「血で汚したらすまぬの」
「そ、それは全然かまわないけど…………」
もちろん日陰だって部屋が汚れるのは嫌だけど、それで優先順位を間違えるほど彼は愚かでもない。
「僕に手伝えることは、ある?」
「いや、日陰殿の手を煩わせるほどでもない」
言うが早いかユグドは傷を抑えていた手を放して懐から一枚の葉を取り出す。小柄なユグドの顔くらいありそうな大きさのそれを傷口に巻き付けるように当てると次に紐を取り出し、手慣れた動作でそれを結んで傷口に葉を固定していく。
「うむ、これでよい」
「えと、それは?」
「世界樹の葉じゃ。使い道はいくつもあるがこうして傷に当てれば痛みを和らげるし傷の直りを早くする」
説明しながらユグドは布を取り出すと血の付いた部分をふき取る。それを見て日陰はウェットティッシュくらい出すべきだったと気づくがもう遅い…………それくらい動揺していたのだ。人の血には慣れたつもりであっても知った顔が傷ついていればやはり動揺は抑えきれない。
「ああそうじゃ、済まぬのじゃが今日は契約の対価を持ってこれなんだ…………今日の分は次回持ってくるから勘弁してほしいのじゃが」
「いや、それは全然かまわないけど…………」
休める場所を提供する代わりに水食糧を提供する契約ではあるが、そんな用意もできなかった理由は語らずとも目に見えている。
「その…………怪我の理由を聞いてもいい?」
ただ、その理由である怪我をなぜ負ってしまったのかは気になる。
「なに、いよいよ若い連中の忍耐に限界が訪れたというだけのことよ」
今ユグドの暮らすエルフの里では里を解放して魔族と手を組むことで人間に対抗しようという勢力が幅を利かせているらしい。それは主に若者が中心で逆に年寄りはそれに反対しているらしいのだけど数で負けている。
しかもユグドはエルフの里の象徴であり力の源である世界樹を独占している独裁者のように思われていてその動向を見張られているのだ…………だから落ち着ける場所として日陰の部屋を提供して見返りに水食糧を貰うことになっていた。
「日陰殿のおかげでわしは気兼ねなく休める場所を手に入れたが、あやつらにも把握できない空白の時間ができたことで疑念を強くしてしまったようでな…………自分たちに対抗するための準備をしているのじゃないか、そう思われてしまったようじゃ」
それでついには実力行使に出た連中に襲われてしまったということらしい。
「それは、僕のせい…………かな」
日陰からしてみれば自分のライフラインを確保するための契約であり選択肢はなかった。しかしユグドの立場であれば他の選択肢の取りようもあったはずだ。それが出来なかったのは自分に気を遣ってくれたせいではないかと思えてしまう。
「いやいや日陰殿のせいではないよ…………そもそも日陰殿が拒否できぬのをいいことに押し掛けたのはわしじゃしの」
日陰に選択肢がないのをわかっていてユグドは契約を迫ったのだから。
「それに里の状況を鑑みればこの場所よりも安全に休める場所などない…………この場で休めなんだとしたらあちらが激発せずともわしのほうが限界を迎えていたはずじゃ」
「そう…………なの?」
「うむ」
ユグドは頷くが日陰が勘違いしていることにも気づいていた。限界を迎えるとは言ってもそれは疲労ではなく忍耐の話だ…………そうなれば今のように自分の血で汚れるのではなくユグドは返り血で汚れ切っていたことだろう。
「しかし困ったものじゃ。一度動き出した以上は止まりはせぬじゃろうし、わしに手を出したのじゃから他の者に手を出すことにも躊躇うまい…………いやもう粛清されてしまっておるかもしれぬな」
世界樹の巫女という最重要人物に直接手を出したのだ、もはや自分たちに反対する老人たちを排除するのに躊躇いないだろう。ユグドは日陰の部屋という安全地帯に避難することができたが、それが出来ない者たちには逃げ場がない。
「こうなるともはや立て直しは不可能か」
「そ、そんなことは…………」
「いや、無理じゃろう」
きっぱりとユグドは首を振る。革命はもはや成った。ここから仮にユグドが過激派連中を全滅させたところで里はもう元には戻らない。過激派も保守派も消えてしまっては外の連中をどうにかできる人材もいなくなる…………遠からず外からの侵入を許すだろう。
「そ、それならもう逃げちゃえば?」
そんな彼女に日陰は提案する。
「どうしようもないことから逃げるのは…………悪いことじゃ、ないよ」
日陰が逃げて逃げて逃げて辿り着いたのがこの部屋なのだから。けれど最後までそれを肯定しきれないように彼はユグドから目を逸らした…………逃げた先で、結局日陰は詰んでしまっていたのだから。
「逃げる、か…………しかしわしは世界樹の巫女じゃからのう」
エルフの里に根付いたその大樹は動けない。今のように一時的ならともかく完全に離れてしまうわけにはいかないのだ。
「その世界樹は、どうしてもなくちゃいけないのものなの?」
正直に言えば日陰は世界樹もその巫女であるユグドのこともよくわからない。ただそれがどれだけ大事なものであっても、自分の命と引き換えにするくらいなら逃げるべきだと彼は思うのだ。
「日蔭殿の言わんとすることもわかるが世界樹とわしは切っても切れない関係…………でもないのか。わしは世界樹の巫女ではあるがあの世界樹そのものと一心同体ではないし、守るべきものは世界樹そのものであったな」
「え、えと?」
「いやあ、自分で口にしていたことでありながら目が曇っておったわ!」
困惑する日陰を他所にユグドはすっきりしたように笑みを浮かべる。
「感謝するぞ日陰殿! これで何もかも綺麗に片付く!」
「え、あ、うん」
よくわからないが日陰は頷くしかない。彼にわからずともユグドが解決する方法を見つけたというのならそれはきっと良いことだろう。
「戻ったらさっそく実行するとするかの。いやはや気づいてみれば簡単なことじゃったな!」
にこやかに笑うユグドその笑みの、それでいて何かを切り捨てたような冷淡な目に日陰は最後まで気づくことはなかった。