7話「"ない"と"られない"」
サユキさんが連れて行ってくれた喫茶店は、いつも横目で見てはいたものの、一度も入ったこともない個人店だった。
僕のリクエスト通り、ペットもOKのその店の、窓から離れたボックス席に僕らは掛けた。モモは席のすぐ横に行儀よく"おすわり"をしているが、差し出された水飲み皿が気に入らないのか、不服そうに睨みつけていた。
「なるほど、無茶をするな、君も」
一通り、僕から経緯を聞いたサユキさんは、届いたアイスコーヒーを一瞥し、そう呟いた。
「五十年前の、それも老人の朧気な記憶を頼りに人探し、か。それがまかり通るなら、世の中の探偵や興信所はみな、廃業だな」
「……まあ、そうっすよね。自分でも、何を馬鹿なことしてるんだ、とは思ってます」
「馬鹿なこと、ね。いいじゃないか、馬鹿で結構。そんな馬鹿は、若いうちしかできないぞ」
「……はあ」
僕は曖昧に頷くことしかできなかった。この話のどこかサユキさんの琴線に触れたのかはわからないが、随分と彼女は、楽しそうだった。
声を弾ませ、さらに続けていく。
「それにしても、まさかあのアスタが人助けとはね。男子三日会わざれば、というやつか?」
「いや、やめてください。そんなんじゃないです。さっきも言った通り、"ワケ"があるわけですから」
そう、僕がこの絵馬に書かれた願いを叶えたいのは、決して善意などによるものではない。
カミサマとやらから、モモの体を取り返すため――そのために、仕方なくこんな苦労を買ってやっているのだ。そうでなければ、誰がこんなこと。
「ふふ、偽悪的でいると、損をするばかりだぞ」
彼女は妖しく笑いながら。
「人の善性は、思想ではなく行いによって測られるべきだと、私は常々思っているがね」
「……僕のことはいいんすよ。それより、やっぱり五十年前の人を探すなんて、無理なんですかね?」
僕は無理矢理話題を転換させることにした。善だの悪だのを論ずるのに興味はなかったが、僕自身の善性に言及されるのは、少しばかり都合が悪い。
そして、その逃避はある程度成功したようで、サユキさんは思案するが如く、腕を組んだ。
「ふむ。そうだな、無理か無理でないかと言われれば……無理、ではあるだろうな」
彼女は、そこで一度言葉を切ってから。
「しかし、足跡を追う程度であれば、不可能とまでは言うまい」
――そう、驚きの結論を出した。
「っ! ほ、本当ですか? でも、どうやって……?」
「どうやって、か。なら、逆に聞くぞ。アスタはどうして、その男が向日葵畑に現れなくなったと思うんだ?」
「……そんなの、理由はいくらでもありそうですけど。都合が悪くなったとか、気持ちが冷めたとか」
僕の言葉を、サユキさんはゆっくり咀嚼する。意味ありげに頷きつつ、たっぷりの時間を置いてから。
「そうか、私は、そうは思わんがな」
「……どうしてですか?」
「考えてもみろ、五十年前だ。今とは違い、恋愛結婚よりも家同士や、見合いによる結婚だって多かった頃だろう。そんな頃に、律儀に逢瀬を重ねる男が、軽い理由で姿を消すとは思えん」
「それなら、他の縁談がまとまったということは考えられませんか。それこそ、家同士決めた相手と結婚することになったとか」
「それこそ、ありえんな。子どもの髪飾り一つを届けるために、約束もしていないのに向日葵畑まで足を運ぶ男だ。別れも、しっかりと告げるだろうよ」
なるほど、と僕は納得した。
彼女の言うことには、かなり信憑性というか、説得力があるように思えた。美化されている可能性は否めないが、アキヨさんの話では、"あの人"とやらは、かなり誠実そうな人間に思える。
では、そんな彼が、突如として姿を消したのはどうしてだろうか?
「……サユキさんは、どうしてだと思いますか? そんな人が突然、姿を消してしまった理由、何か思いつきますか?」
「ふむ、理由、ね」
サユキさんはそこで、暫しの黙考を挟んだ。恐らく、彼女の聡さであれば、既に答えは出ているのだろう。
僕に過不足無く伝えるために、言葉を選んでいるのだ。それがわかっているから、無駄に口を挟んだりはしない。
彼女はアイスコーヒーを一口含む。氷が揺れて、涼やかな音を起てた。それを、合図にするようにして。
「そうだな、私ならば、その男はただ姿を消したわけじゃない。待ち合わせ場所に来ることができなかったんじゃないかと、そう考えるだろうな」
「……待ち合わせ場所に来ることが、できなかった?」
「ああ、転勤、訃報、或いは、もっと何か別のアクシデントによる、不可抗力。そう考えたほうが、よっぽど自然だと思うがね」
彼女の言う通り、確かにそちらの方が筋が通る――気がした。
別れを告げなかったのではなく、告げられなかった。それであれば、アキヨさんが言う、"あの人"の人物像とも乖離しない。
そこまではいい。しかし、腑に落ちないことが一つ。
「……でも、それじゃあやっぱり、その人の足跡を追うなんて不可能じゃないっすか? どんなアクシデントがあったかは知らないっすけど、結局、"どうして"の理由に追いついただけじゃないっすか」
「……君の、中途半端な敬語モドキは少し、癪に障るな」
サユキさんの、彫りがしっかりとした眉根にシワが寄せられる。
先ほど、彼女は足跡を追う程度であれば不可能ではないと、そう言っていた。顔も、名前もわからない相手をだ。
その自信のネタバラシとしては、いかんせん、弱い気がしないでもない。だって結局、その男がどこに行ったかは、わかっていないのだから――。
「そうだな、少しばかり不親切だったが、考えればわかることだろう。その手がかりは、アキヨさんの話の中にある」
「……アキヨさんの? 何か、変わったこと言ってましたっけ……?」
彼女との会話を思い返す。しかし、並べられていたのはセピア色の記憶ばかり。男の行方に関わるような話はしていなかったように思える。
考える僕をよそに、サユキさんはコーヒーを飲み干した。先ほどまで液体が満たされ、黒黒としていたグラスは、今や血の気を失い、凍えきった透明を晒している。
と、そこで彼女は伝票を手に席を立った。ふわりと、黄金色の髪が風に舞い上がり、辺りに花の匂いが広がる。
「さ、ヒントはこのくらいで十分だろう。少しは自分で考えることも大事だからな。図書館にでも行って、頭を捻りたまえ」
「あ、ちょっと! サユキさん――」
そのまま彼女は去っていく。慌てて、その背を追おうとするが、足元から伸びるモモのリードに足を引っ掛け、そのまま視界はぐるりと回転した。
転倒の衝撃に揺さぶられながら、僕は考える。
"あの人"は、来なかったんじゃなくて、来られなかった?
そして、その手がかりはアキヨさんの話の中にある?
何もかもが疑問符のままで、僕は思考する。立ち上がれもしないまま考える僕の耳に届いた、呆れるようなモモの溜息が、酷く癪だった。
「……これから、どうするんだい?」
観念したように水飲み皿を舐めていたモモが、そう、問いかけてくる。
少しだけ、僕は考える。答えは、その背中すらも見えていない。しかし、確かにサユキさんはヒントをくれたのだ。
「――とりあえず、もう少し考えてみるさ。図書館にでも行って、さ」
遅まきながら、遠くからウエイトレスが駆けてくるのが見えた。心配の言葉を振り切るようにして、僕も再び、炎天の下に舞い戻る。
託された、僅かな手がかりの線を、絶やさぬようにと考えながら――。




