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余談「或る絵本作家について」


「それにしても、成し遂げられるとは、正直思っていなかったよ」


 軽い調子で、そう口にしつつ、サユキさんはカップを傾けた。


 ウメの件が片付いた、翌週くらいのことだろうか。随分と世話になったし、この街を出るのであれば、挨拶くらいはしておくべきだろうと、僕は彼女を、いつぞやの喫茶店に呼び出した。


 足元で、モモが水飲み皿を舐める音を聞きながら、僕は、溜息を一つ。



「思ってなかったって……そりゃ、随分とあけすけに言うじゃないですか」


「それは、まあな。正直、あの建設計画に関わっていた企業の規模と、動いている金額、そして何より、アスタ自身の心の強さを考えると、勝機はまるでなかった」


「……まあ、僕が弱いことは、否定しないっすけど」


「そういうところだ。弱さを素直に認めるのは、美徳ではないぞ。どういう心境の変化があったんだ?」



 どういう、か。そう聞かれると、難しい。あの時は色々なことが起こったし、様々な要因が噛み合って、心持ちが変わったような気がする。


 ただ、それでも。一つ大きなきっかけを挙げるとするのなら、"アレ"だろうか。



「いやあ、別に、大したことはないんすけど」僕はそう、前置いてから。

「久木父に凹まされた後、逃げ込んだ公園で、ちっとばかし喝を入れてもらったんすよ」


「……ほう。それで?」サユキさんの眉が、興味深げに上がる。


「はい、その人が言ってたんすよね。"目を閉じて、変わり続けたいと願え"って。だから、僕も、それに従って、自分の本当の気持ちを見つめ直して――」



 ――そう、あれがなければ、僕は本質を見誤ったままだった。


 あのまま腐って、数日が過ぎれば、久木父による時間稼ぎも上手くいかなかっただろうし、モモの体だって保たなかったかもしれない。


 ここまで上手く行ったのは、やはり、あそこで背を押してもらえたのが、とにかく大きかったと言えるだろう。


「……まあ、僕がもっと早く、自分の気持ちと向き合っていれば――」


 そんな調子で、咎められた端から、再び自嘲を重ねようとした僕だったが。



「――待て、アスタ。お前今、何と言った?」



 不意に、サユキさんの表情が固まる。


 怒り――違う。

 困惑――違う。

 そう、これは、驚愕だ。



「は、はい? いや、僕がもっと早く、向き合って……」


「その前だ。公園で、誰かに言われたのだろう?」


「ええ、まあ……"目を閉じて、変わりたいと"――」



 そこで、サユキさんが大きく身を乗り出した。


 彼女の長く、しなやかな指が僕の両肩を押さえ、万力のような力で食い込んでくる。ずい、と寄せられた顔は、平時であればその美しさに目を背けたくなるだろうが、今では、別の理由で勘弁願いたい。


 そう、一言で表すのなら――鬼気迫る、といった具合だろうか。


 サユキさんは、怒りと驚き。そして、どこか喜びを滲ませた、凄まじい気迫の笑みを浮かべながら、僕を睨みつけている。顔は笑っているが、目の奥の方には修羅の如き眼光が見え隠れしていた。


「……さ、サユキ、さん?」


 完全に気圧された僕は、一歩後退――れない。ボックス席なのが災いして、椅子を引くことすらできはしない。


 何かを感じ取ったのか、僕の足元で、モモが弱々しく鳴いた。そんな鳴き声を出されても、飼い主だって助けてやりようがない。



「アスタよ、一つ、聞かせてくれ」


「な、なんでしょう……?」


「……もしかして、だが。その男、身長はこのくらいで、杖をついていなかったか?」



 記憶を辿る。そういえば、ついていた気がする。確か、本人は――。


「ええ、ついてましたよ。確か、名誉の負傷だ、とか言って――」


 それが、最後のスイッチだった。


 不意に、サユキさんが立ち上がる。目元は、影になって見えない。どんな表情をしているのか、まるで読めなかった。



「……そう、か。ふ、ふふふふ」


「え、えーと……その人が、どうか……」



 最後まで、言い切ることもできず。




「……あ、い、つーーーーーッ! 帰ってきたのなら、何故一報も寄越さんのだ!」




 聞いたこともない大声だった。


 目を三角にして咆哮するサユキさんは新鮮だったが、そう呑気なことも言っていられない。



「お、お知り合いだったんすね、あの人と」


「ああ、知り合い……昔の仲間だ。もう、年単位で顔を出していないがな!」



 もうこれは、何を言っても藪蛇だ。


 僕がしなければならないことは、この場からの一刻も早い脱出。それに他ならない。サユキさんの視線が逸れた隙に、細かく震えるモモを抱き上げ、こっそりと離脱を試みようとして――。


「――待て、アスタ。お前、どこに行くつもりだ」


 くそっ、バレた。逃げられない。



「い、いやあ、ほら、そろそろ帰って、荷造りとかしようかなと思いまして。復学も……」


「阿呆め、復学は来月からだろう。まだこの夏いっぱいは、暇を持て余している――違うか?」


「いやあ、ほら、学校休んでたぶん、勉強とか……」


「そんなもの、後でいくらでも教えてやる。下らないことを言っていないで、私と行くぞ」


「行くって、どこへ……?」



 いや、これは言うまでもなくわかっていた。


 聞くべきでないことを聞いたのは、僕の過失だ。ならばその報いを、僕が受けるのも当然だ――。


「どこへ、だと?」髪が逆立つような錯覚と共に。

「決まっている、あの阿呆を探しにだ! まだ、近くにいるだろう!」


 そうして、そこから僕とモモは、ほとんど一昼夜、街中を引き摺り回されることになった。


 翌日の昼過ぎ頃、呑気に飲食店から出てきた絵本作家と、サユキさんの再会に伴うあれやこれは、また、別のお話だ。


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