59話「ねがいの灯火」
変化は悪いことではない。
ただ、もう二度と会えない景色に、後ろ髪を引かれることもある。
裏山は、僅かひと月ほどで、その色合いを大きく変えていた。木々の伐採、山肌を慣らすための掘削。恐らくは、ソーラーパネルをいくつも並べるための土台になるであろう、枠組みが整列しているのだろうが、流石にここからでは見えない。
ただ、変わりゆくのを、遠くから眺めるばかりだ。
そうして歩くうち、僕の足は、ある一箇所で止まった。
歴史を感じさせる、木造とすりガラス。くすんだ看板の色合いは、この店の歴史を表すものだ。
"こすもす屋"の軒先は、眠るように沈黙していた。時間が早いのもそうだが、それだけではないだろう。
店先に貼り出された、一枚の紙切れ――アキヨさんは、この夏いっぱいで、店を閉めることにしたのだ。
この間、サユキさんから聞いた話では、この周辺一帯の土地の買い上げは、もうほとんど終わっているようだった。アキヨさんも、老後を過ごすのには十分な金額を受け取って、別の所に移り住むらしい。
もう、ここで待つ相手はいないのだから。
彼女をここに、縛りつけておくこともない。
「……どっちが」僕は、誰ともなく。「どっちが、よかったんだろうな」
来ない待ち人を、ここで想い続けるのと、しがらみを断ち切って、一歩歩み出すのと。
それは、わからない。僕だってそうだ、この街から、再び旅立つことを決めたのが正解かはわからない。
もしかすると、前よりも酷い折られ方をして、帰ってくる可能性だってある。
未来は――いつだって真っ暗だ。
「――よかったんだよ、これで」
不意に聞こえたのは、弾むようなアルト。
振り返ったところで、"彼女"と目が合う。肩に、何やら楽器のケースのようなものをかけた、ピンと伸びた背筋。
「……メイ、今日は随分と、早いんだな」
僕の言葉に、メイは小さくはにかんだ。
「まあ、ね。文化祭は終わったけど、まだまだ軽音の活動は続けたいし」
「また無理してるんじゃないだろうな、今度ぶっ倒れても、僕は見舞いに来てはやれないぞ」
「大丈夫だよ、今はお父さんも、仕事は適度にしてくれてるし、私も、そこまでの無理はしないようにしてるし……」
そこで、彼女は一度、言葉を濁した。
視線が、不確かに彷徨う。まるで、ここにない何かに、思いを馳せるかのように。
「……全部、終わったんだよね」
ぽつり、呟いたメイに、僕は何も言葉を返すことはなかった。
ただ、静かに頷いて、それだけ。それだけで僕らの間には、十分なほどに伝わるはずだ。
全部。
そう、全部、終わったのだ。
あの後、僕らはウメの遺体を、遺族に引き渡すことができた。
残っていたのは頭蓋骨と、そこに繋がる顎の骨、骨盤、背骨と鎖骨の一部。
それらを受け取りに来た、初老の夫婦は疲れ切った様子だった。やっと見つかった我が子の亡骸を見ても、涙一つない。
10年前も、ウメの両親とは大した交流がなかった僕らは、どこか他人行儀な挨拶をひとつ、ふたつと交わして、それっきり。
彼らが、どんな10年間を過ごしてきたのかを、僕らは知らない。だから、その態度を蛋白だと非難することもできない。
ただ、中身がロクに入っていない骨壺を抱えていく、その背中を見送った時に、一つの物語の幕切れを強く感じた。言ってしまえば、それだけのことだ。
「アスタは、ウメちゃんのことを思い出して、昔のことに決着もついて、私も、お父さんと向き合えるようになって……」
「ああ、何もかも、上手く行った……わけじゃないけどさ。ここで一区切り、ってことにはなるだろうな」
「……一区切り。じゃあ、やっぱり――」
そこで、彼女は一度、言葉を切った。
表情が、寂しげに歪む。何を言おうとしているのか、口にする前に分かった気がした。
「――ねえ」それは、予想通りに。「本当に、行っちゃうの?」
僕はなんと返すべきか、少しだけ迷った。復学することを最初に相談したのは、彼女だったのだが、やはりというか、その表情はずっと、明るいものではなかった。
言わんとすることは、わかる。僕がこの町でしたことは、帰ってきた数ヶ月の間に成し遂げたことは、過去に別れを告げただけだ。
"向こう"で僕を待っているあれこれは、何も解決していない。そういう意味では、彼女もまた、明樂先生と同じ心配をしているのだろう。
同じ回答を返すことも、できた。けれど、彼女に信じてもらえるほど、僕は強さを示せたわけじゃない。
なら、きっと。不安を拭うための言葉はこれが適切だ。
「……僕はさ、たぶんまた、帰ってくることになると思う」
敢えてそう、口にした。
10年前、僕は立ち止まってしまった。
そして今、ようやく歩き出せた。
ならば、10年後。僕はどこにいるのだろうか。歩き続けた先にいるのか、それとも、途中でまた止まってしまうのか。
僕たちの世界には、カミサマがいない。それを、僕ら自身が選んだ。真っ直ぐな線を引くための頼りはもう――なくなってしまった。
不安定な指先が、この先に、どんな形を紡ぎ出すのかは、誰にもわからない。
だから。
「いつかここに帰ってきて、自分の描いたものを見つめ直すことになるんだと思う。僕も、たぶん、お前も」
「……うん」メイは、深く頷いた。
「その時に、また、僕らは会うことになるさ。そんなに悲しい顔をしなくても、必然、僕たちの道はいずれ、重なるんだ――」
平行線だった僕らは、ほんの少しだけ、曲がることを選んだ。選ぶことが、できた。
ならば、それぞれの方向を向いていようとも、いずれ僕たちはまた、交差することになる。望むと望まざると――それを、運命と呼ぶのだろう。
「アスタ、さあ」
メイが、ニヤリと笑う。衒いのない、陰りもない、真っ直ぐな瞳が、僕を射抜いた。
同時に、モモが大きく吠えた。それは、たぶん、彼女と同じ感想を述べていたのだろう。
茶化すように、誤魔化すように。至極、いつもの調子で。
「何そのクサい台詞、格好つけすぎだよ」
うるさいな。返す言葉も、夏の終わりのヒグラシに交じり、ぱちん、ぱちんと弾けていく。
本当の願いごとほど、叶わないものだ。
唯一の願いは、叶えるものだから。
そうして、灯り続ける明かりの群れが、僕たちの行先を照らしていく。
この、真っ暗な、道の先を――。




