58話「巣立ち」
季節は、暦を読むことができない。
だから、というべきか。夏の終わりに差し掛かっても、まだ、世界は炙るような熱に晒されていた。
そんな大気の温度が頂点に達する前の、煙たい朝方。僕は、玄関で靴紐を結んでいた。
右手にはリード。繋がる先で、荒く息を繰り返すモモが飛び出していこうとするのを制しながら、僕はゆっくりと立ち上がった。
ドアノブに手をかけると、背後から母親の声が聞こえた。
それに生返事を返しながら、僕は家を出る。
庭先の朝顔は、今日も変わらずに咲いている。鮮やかな紫色を直視できるようになったのは、一つ、進歩かもしれない。
息を吸えば、特有の重い空気と、そこに交じる蝉の声が、夏の終わりを思わせる。立ち上る雲の峰も、じきにその姿を消すのだろう。
世界は僕を乗せずとも、変わらずに回り続けている。
世界は僕の変化など、関係なく回り続けている――。
「――ぅわう、ばう!」
急かすように、モモがリードを引いてくる。やせ細っていた体はもう、すっかりと回復し、元の活発さを取り戻した。
――否、むしろ、以前よりも元気になったくらいだ。
「おいおい、あんまり引っ張るなよ。わかったわかった、待たせて悪かったって……」
まだ眠気の残る頭では、ご機嫌で駆けていく犬には追いつけない。半ば引き摺られるようにして、忙しく足をバタつかせ、どうにかついていく。
ルートはいつも通り。町内を軽く回って、最後は公園に。微睡みから身を起こし始めた町を、僕らは駆ける。
寝起きの陽光は、まだ僕たちを焼き焦がすほどに熱くはない。それでも、モモの調子に付き合えば、自然と額に汗が浮く。
「よぉ! 今日もやってんな、アスタ!」
そう、声をかけられたのは、頬を伝う汗を拭い、際限なく僕を引っ張るモモを制して立ち止まった、その瞬間だった。
振り返る。微かに耳に届くエンジン音。
一つ先の辻に、見慣れたトラックが見えた。そして、運転席の窓から投げ出された、逞しい腕も。
「明樂先生、ご無沙汰してるっす」
「はっ、なあにがご無沙汰だ。たかだか、一、二週間ってとこだろ?」
豪快に、先生は笑う。
あの日、山でウメを見送ってから、"サイクルショップ・アキレア"には行っていなかった。というか、そもそも自転車を持っていない僕が、わざわざ自転車屋まで足を運ぶこともないのだが。
必然、先生とも少しばかり連絡が途切れる。絵馬の願いのために、頻繁に呼び出していた先月が、ある意味では異常だったとも言えるだろう。
「ガハハ……まあ、でも、よかったぜ」先生の視線が、僕の足元に向けられた。
「犬っころも元気になって、お前も憑き物が落ちたみてえだしよ」
「……はは、まあ、色々あったっすから」
そう、色々。
本当に色々あったのだ。このひと夏で、僕は、これからの人生でもそうはない、得難い経験をいくつもした。
正直、たったひと月で、何歳も歳を取った気分だ。
そんな僕を見て、先生は肩を竦める。
「ああ? 何だよお前、覇気が足りねえな。折角、しがらみってやつがなくなったんだろ?」
「はい、まあ、そうっすけど……」
素直にそれを喜べなかった。
しがらみ、そう言ってしまえば煩わしいものに思えるが、そこに、置いていきたくないものがあったのも事実だ。
踏ん切りをつけたつもりではあっても、その気持ちまで、忘れたくはなかった。
明樂先生は溜め息を吐く。あれだけのことを経ても、まだ頼りない僕に呆れるように目を細めつつ、その先を続けた。
「おいおい、そんなんで大丈夫かよ。週明けなんだろ――復学、さ」
僕は静かに頷く。僕は来週から再び、高校生に戻ることになる。
僕が書いた退学届を、両親は学校側に提出していなかった。一旦、休学という扱いになっており、数ヶ月を経ての復学が許されたわけだ。
「……まあ、親御さんに感謝するこったな。お前のことを信じて、可能性を残してくれたってことだ」
「ええ、本当にそうっす。あのままじゃ、僕は一生、折れたまんまで生きていかなきゃいけなかった」
それでも、あともう少し、僕が立ち直るのが遅ければ、復学も容易ではなくなってしまっていたらしいが。
1年時の頑張りも加味してもらえて、ここから向こう半年は、毎週補習地獄になるようだが、自分の撒いた種だ。後悔はしていない。
「それにしてもよ、よかったのか?」先生が、怪訝そうに問いかけてくる。
「よかったのかって、何がですか?」
「とぼけんなよ、お前、元の高校に戻るんだろ? 辛ぇこともあっただろうに。こっちに転校してきて、久木と同じ高校に通えばよかったじゃねえか」
「……それも、考えたんすけどね」
こっちの高校なら、中学までの友達もそこそこいる。孤立することも、考えなくていい。
けれど、逃げたくなかったのだ。
あの、僕をへし折った理不尽に、少なくとも一矢報いずにはいられなかった。明樂先生の言葉を借りれば、それこそ、"しがらみ"というやつだ。
これから先の人生で幾度となく立ち塞がるであろうそれに、ここで負けるわけにはいかなかった。
「いいんすよ、僕はもうちょっと、揉まれなきゃいけない。凹まされたまんま逃げてきたんじゃ、ウメの奴にも格好がつかないっすから」
「……そうか。お前が決めたんなら、俺が口を挟むようなことじゃねえか」
そこで、先生はハンドルを両手で握った。どうやら、話は終わり、ということらしい。
僕はそこで、深々と頭を下げた。今伝えておかなければ、機会を逃してしまいそうだったから。
「明樂先生、本当にお世話になりました。今回も、その前も」
明樂先生、萌音さん、サユキさんに、メイや、メイの父さん。色々な人に助けられて、僕はここに立っている。
その感謝は、伝えられるうちに伝えなければならない。人の思いは風化してしまうから、それが曖昧な"願い"に変わる前に、言葉に。
けれど、先生はそんな僕を、軽く笑い飛ばして。
「がっはっは! なあに言ってんだ、お前。こいつぁ、きっちり貸しにしとくぜ」
「……貸し、っすか」
「おうよ、まあ、お前が酒でも飲める頃になったら、一杯奢ってもらうとするかな!」
はい、と頷く。それは彼なりの、再会の約束だったのだろう。
僕は、再びこの街から巣立っていく。沢山のものを得て、沢山のものを見送ったこの街から、今度は、僕が見送られる。
けれど、それは決して、今生の別れというわけではない。
だから、さよならは言わなかった。ただ、窓を閉めて走り去っていく彼に、僕は、ぽつり。
「……明樂先生、また、いつか」
僕は散歩を続ける。
モモと共に、変わりゆく街を行く。




