56話「ともしび」
最初、僕はそれが何なのかを、正しく認識することができなかった。
今まで無数に除けてきた、木の根や石塊、それらに類似する何かの一つだとしか思えない。少なくとも、パッと見ただけでは。
だから――明らかに致命的な部位が姿を現すまで、手を止めることができなかった。
「っ、はあ、はあ」
僕はそこで、大きく息をした。いつの間にか呼吸も忘れていたのか、肺の奥が萎むような苦しさがあった。
しかし、ようやく――"それ"を見つけることができた。
「……おい、アスタ、それってよ」
背後から、共に作業していた明樂先生が、手元を覗き込んでくる。
「……はい、そうです。やっと、見つけた」
――頭蓋骨。
思っていたよりも、ひと回り以上小さい。いや、肉がついていない骨は、元々こんなものなのだろうか。
屈み込んでみる。近場で見れば見るほど、不思議な感覚になるそれは、もう完膚なきまでの終わりだった。希望など一つもなく、命がモノに変わっていた。
それでも、これは"彼女"で。
間違いなく、かつて息衝いていた、僕らの――。
「――アスタ」背後から、声が聞こえてくる。
見れば、戻ってきたメイが、そこに立っていた。その手にあるのは大きな籠――中型犬くらいなら入りそうな、ペットゲージだ。
「お、思ってたよりも、早かったな。"あいつ"は?」
「うん、ちゃんと、連れてきたよ。それより、そこにあるのって――」
「……ああ、そうだよ」
僕は、足元に目を落とす。
答えを、口にしなければならない。通るだけで喉が痛み、心を裂き、そして、耐え難いほどの苦味を発するそれを、僕は言わなきゃいけない。
答え合わせのない問いなど、不毛なだけだ。
少なくとも、答えのあるものに限っては。
だから、僕は口にする。あの日置いてきてしまった、友人の名前を――。
「――これは、ウメちゃんの骨だよ」
同時、頭の奥で弾けるような感覚があった。
靄が晴れ、今までノイズがかかっていた視界がクリアになる。直視を避けていた黒塗りの下から、ようやく、"それ"が顔を覗かせる。
百瀬梅。
それが、彼女の名前だ。今ではありありと思い出せる。ウメちゃんと呼ぶと、いつも、決まって――。
「――そう呼ばないでって言ったじゃん。おばあちゃんみたいだからさ」
声が聞こえた。風邪をこじらせた時のような、嗄れた声だ。
出所は、メイの抱えるペットゲージの中から。それで何かを察したのか、メイが籠を地面に置けば、直に、彼女は歩み出てくる。
僕の記憶よりも、ひと回りほど細った。
毛並みも随分と悪くなった。
一匹の、小さな犬が。
そして何よりも、僕たちの旅路をここまで見守ってくれていたカミサマが、今、目の前に降り立った。
「……見ない間に、随分痩せたな」
「ふふ、最近、ずっと寝てたから。アスタが、迎えに来るのが遅いからだよ」
「そうだな、本当に、待たせちまった」
「待たせすぎ、だよ。一度は、本当に諦めなきゃいけないかと思ったんだからさ」
でも、諦めなくてよかった――と。
モモ、改め、ウメは笑う。犬の表情などわからないから、あくまでも笑ったように見えた、だけなのだが。
彼女は少しの間、空を見上げていた。木々に閉ざされた、狭い空。そこに求めるものはなかったのだろう、すぐに、その視線は僕らの方に、具体的には、まだ半ばほどまで土に埋もれた、自身の頭蓋骨に向けられる。
「……あの日、アスタは私を助けに来てくれた。絵馬に書く願い事が思いつかなくて不貞腐れた私が、崩れた崖に足を取られたとき。アスタの手が伸びてきて、私を掴んでくれたのを覚えてる」
「ああ、そうだな。でも、その後――」
「――うん、二人して落ちちゃったのは、間抜けだったね。でも、私たちはそれじゃ、死ななかった」
神を騙っていた時とは違う、ウメの柔らかい語り口に、僕の記憶の蓋が緩んでいくのを感じる。
そう、あの日、僕たちは絵馬に願いをかけようとしていた。神社が移設される前に、最後の願いごとを書き残そうと、はしゃいでいた。
そして、些末なきっかけだったと思う。すんなりと願いごとが出てこない僕を、メイが煽って。気恥ずかしかった僕は、ウメをからかうように話を逸らして。それがいつの間にか絡まって、言い合いになってしまった。
逃げるように駆け出した彼女は、神社の裏手へ。恐らくは、遠くまで行くつもりもない、ポーズだけの逃避だったのだろう。それでも、切り立った崖があることは知っていたから、僕は反射的に後を追いかけて。
その漠然とした不安が的中するように、僕たちの足元は崩れ落ちたのだ。
「……それでも、私は死ななかった。死ねなかった。あちこちを打ちつけて、生まれてから一番痛い思いをしたのに、私は目を覚ましてしまった」
――目覚めた彼女が、最初に目にしたのは、倒れ伏す僕の姿だったのだろう。
そこからは、先に僕らが予想した通りだった。宝物の絵本を残して、助けを呼ぶために歩き出して、そして。
「気付いたら、私はどこにもいない存在になっていた。お化けっていうのかな。声は誰にも届かない、誰も私を見つけられない、そんな状態になっても、どこにも行けないままだった」
「……成仏は、できなかったのか?」僕は問いかける。
「最初は、踏ん切りをつけようと思ってたよ。でも、できなかった」
「そうだよな、やっぱり、未練が――」
しかし、僕の言葉に、ウメは首を振った。まるで呆れたような仕草だった。
「――違うよ、私が逝けなかったのは、みんなが心配だったから」
「……心配?」
「うん、私はね、死んじゃった後……この山の神社で目を覚ましたの。そして、それからずっと、町を見守ってきた。私のいない、私だけが欠けた町がどうなるのかを、見つめ続けた」
それは。
それは、なんて残酷な仕打ちなのだろう。
世界は自分を載せずに回る。なんて、僕は自嘲したことがあるが、その様をありありと見せつけられて正気でいられるかは、別問題だ。
きっと、耐えきれず、それでも既に、死という結末を迎えてしまっている彼女は――これ以上、さらに死ぬことなどできない。
だから、彼女は見続けたのだ。傷跡が埋まりゆく様を、欠落が補填されていく経緯を。
「弱さに気付いていないアスタが心配だった。すれ違いで削れていくメイちゃんが心配だった。いつまでも置き去りのアキヨさんが、その他にも、沢山の人が、沢山の弱さを抱えているのを、私は知ってしまった」
「……願いは、弱さか?」
「わからないよ、でも、みんな抱いてた。そのくせ、目を向けようとしないから、いつまでも血を流したままだった」
手が届かないから、あまりにも代償が重いから。そんな理由で、僕たちは胸の中にある願いを、どこか遠ざけようとしてしまう。
だから、僕たちはいつまでも癒えないままだ。
そんな、心の奥にある灯火のことを"願い"と呼ぶのなら、確かに皆、重傷なのだろう。
いつまでもその熱に苦しめられながら――この道を、歩む羽目になるのだ。




