5話「絶えた手がかり」
「あの人と出会ったのは、預かってた姪っ子を探しに行った時だったわね」
まるで、古い本を開く時のような、じんわりとした声で、アキヨさんは語り始めた。
僕とメイは、出してもらった丸椅子に腰掛けて、それを聞いている。夏の暑さがどこか遠退くような、そんな声色だった。
「日が暮れても帰ってこなくてねえ、困り果てて、町中探し回ったわ。やんちゃな子だったから、怪我でもしてないかと思ってねえ」
「それで……見つかったの?」メイが、先を急かすように。
「ああ、見つかったよ。あの子は町外れの向日葵畑に迷い込んでてね。帰り道がわかんなくて、泣いてたんだと――」
「……向日葵畑ってことは、もしかして」
僕は、壁の向日葵に視線を向けた。
有名な絵、というわけではないと思う。例えば、ゴッホの"ひまわり"のような。しかし、その、どこか荒々しく乱雑にも思えるタッチには、心惹かれるものがある――気がした。
「そう。"あの人"が、たまたま見つけてくれててねえ。背が高くて、三つ揃えの背広を着た、おしゃれな人だったよ」
「へえ、なんだか、素敵な話」
メイが目を輝かせる。
僕には、惚れた腫れたの話はわからない。そういったものとは無縁だったし、恐らくはこれからも縁遠いだろうから。
しかし、それでも、活き活きと語るアキヨさんの姿は、眩しいくらいに見えた。
そのまま、彼女は続ける。
「"あの人"は、そのまますぐに帰ってしまってねえ、お礼も言えずじまいだったのさ。それが気になって、試しに次の週も、向日葵畑に行ってみたの」
「……会えたの?」
「ええ。"あの人"も、私を探してた。姪が落とした髪飾りを、返したかったらしくてね」
目を細めた彼女は、ここではない何処かを見つめるような瞳をしていた。
そう、まるで、彼女自身が五十年以上前に戻ってしまったかのように。頁をめくり、話は進む。
「……それから、私たちはどちらから言い始めるでもなく、毎週のように逢うことになったわ。金曜日の夕方、場所は、あの向日葵畑。お互いのことはなんにも知らなかったけど、二人でいるだけで、幸せだった」
「なんにも知らない、か。聞かなかったのか? その、相手の素性とか」
僕の問いかけに、アキヨさんは静かに首を振った。
「聞かなかったねえ。お互いに、ほんのひと時憩うだけの、そんな関係だと思ってたから」
その価値観は、あまり理解できなかった。もしかすると、それは僕が現代を生きる子供だからなのかもしれない。
また会いたい人がいるのなら、今であれば、SNSや連絡先を聞けばいい。しかし、当時はそうもいかなかったのだろう。その時、その場所でのみ成立する関係――そんなものが、あったのかもしれない。
「……でもね。そんな毎日は、長く続かなかったの」
そこで、アキヨさんは少しだけ目を伏せた。声のトーンも、一つ低くなる。
「"あの人"は、ある日突然、待ち合わせ場所に来なくなったわ。次の週も、その次の週も。私は毎週通ったけれど、ついに、"あの人"は姿を現さなかった」
「……そんな。どうして、急に……?」
メイの声が、僅かに震える。どうして、今聞いたばかりの話にそこまで感情移入できるのか、と疑問に思ったものの、僕にだってそれを口に出さない程度のデリカシーはある。
「じゃあ、それから、その人には一度も会ってない……ってことか?」
「ええ、そうなるわね。"あの人"は、最後に会った日の夕暮れの中――向日葵畑の向こうに、消えてしまったの」
優しく笑うアキヨさんの表情は、額面通りに受け取れるものではなかった。傷つき、恐らく、当時は悩んだのだろう。
しかし、既にその傷も癒えている。残っているのは、ほろ苦い思い出という名の傷痕だけ。それをなぞるようにして、彼女は続ける。
「……神社の絵馬に書いたのもね。未練になると嫌だからと思って、神様に聞いてもらおうとしたの。ほら、いくつまで生きられるか、わからないからねえ」
「そんなこと言わないで、長生きしてよ、おばあちゃん!」
「……そういう問題じゃないだろ、メイ。つまり、終活……みたいなことだと思って、この絵馬を書いたわけか」
僕は再び、絵馬に目を落とす。
整った、どこか柔らかい筆跡。しかし、今の話を聞いた後であれば、そこから何か伝わってくるような、そんな気さえしてしまう。
五十年、それだけの年月を経て積み重ねた想い。僕には理解の追いつかないものだが、決して軽くないものだということくらいは、わかる。
「まあ、今風に言えば、そんな感じなのかねえ。でも、書いてよかったよ。こんな昔に押し込めた思い出を、人に話せることなんて、そうないからね」
「……押し込めた思い出、ね」
もしかすると、この話は、本来であればアキヨさんが誰にも口にすることなく、墓場まで持っていくようなものだったのかもしれない。
終わった話。端的に言うのなら、そうなのだろう。五十年も前に少しだけ逢瀬を重ねた相手を見つけるなんて、できるはずがない。
「でもさ、アキヨの婆ちゃん。僕はそれを、単なる思い出話で終わらせるつもりはないんだ。駄目で元々と思って、何でもいいから手がかりになりそうなことを、教えてくれないか?」
そう、それがどんな無理難題だろうと、僕は挑まなければならない。
何せ、モモの体が懸かっている。"はいそうですか"で、終わるわけにはいかないのだ。
「……そうねえ。私もこの歳になると、物忘れが激しくてねえ。"あの人"の顔も、今じゃ朧気だよ」
「わかってる、けど、何か、少しでも構わない。覚えていることがあったり……」
「覚えていること、ねえ。面白い話をする人ではあった、と思うけれど。いつも、珍しいお土産や、海外の話をしてくれたっけねえ」
「それじゃあ、手がかりにはならないって。何か、もっと……」
この街だけでも、数万人の人々が暮らしている。さらに、街の外に出ていった可能性まで考えるのなら、正しくこれは、砂漠で一本の針を探すようなものだ。
せめて、もう少し情報が無ければ、手の打ちようがない。そう、考えたのだが――。
「……ごめんねえ。これ以上は、難しいわ」
――アキヨさんは、そう、話を綴じた
。
モモが言っていたことを思い出す。願いはまだ、叶えることができる状態なのだと。
本当にそうなのだろうか。彼女の、セピア色に褪せてしまった思い出だけで、想い人を見つけ出すことなど、できるのだろうか――?
そう、思考を巡らせる僕の背を、メイが小突く。
「もう、あんまりしつこく聞いちゃ駄目だよ。アキヨさんの、だーいじな思い出なんだから!」
「っ、わ、わかってるよ、そんなこと……だから、なんとか、叶えてあげようとだな……」
「叶えてあげる、とか、女心がわかってないなあ、アスタは!」
これ見よがしに肩を竦める彼女に、一言くらい返してやろうと思ったが、何も思いつかない。取り合う方が、無駄に体力を消耗しそうだ。
僕は鬱屈を嘆息に変えて、くるりと背を向ける。
「……悪かったよ、んじゃ、女心がわからない僕は、大人しく退散しますよ、っと」
ひらひら手を振って、"こすもす屋"の黄ばんだ硝子戸を開ける。やかましい開閉音もそこそこに、僕の頭を、過剰なほどの陽光が焼いた。
ふと、横合いに目をやれば、柵に繋がれたモモ――もとい、カミサマと目が合った。
軒先の僅かな日陰に逃げ込み、絶え絶えに息をしている彼に近付いていく。どうやら、カミサマであっても、日本の酷暑は堪えるらしい。
「……あ、やっと、出てきた。どう、願い事を叶える糸口は掴めた?」
甲高い声で、モモが語りかけてくる。僕は策に繋がれたリードを外してやりつつ、それに答えることはなかった。
糸口――そんなものが、先ほどの話の中にあっただろうか。
ともかく今は、一刻も早く涼しい所に逃げ込まなければやっていられない。頭頂に焦げ目がつく前に、と急く指先がリードを外せたのは、それから数十秒後のことだった。