4話「枯れた向日葵」
駄菓子屋"こすもす屋"は、僕たちが通っていた小学校の、校門から歩いて一分以内にある、小さな個人商店だ。
昭和の中頃からあるという小ぢんまりとした建物は、最近になってリフォームを入れたらしく、外壁の塗装が新しくなっていた。
店の前まで来てみれば、黄ばんだガラスのはめ込まれた、今どき珍しい引き戸が僕らを迎えてくれた。表面にぼんやりと映る自分の輪郭を眺めながら、僕は、チラリと、背後に視線を投げる。
「……で、どうしてお前がついてきているんだ?」
振り返れば、そこには、嬉しそうに笑みを浮かべるメイの姿があった。その手には、モモの首に繋がるリードが握られている。
「え……? だって、ほら、気になるじゃん! アキヨおばあちゃんの、ずーっと昔の想い人でしょ?」
「まだそうと決まったわけじゃ……というか、お前、朝練とやらには行かなくていいのかよ?」
「朝練はいつでもできるけど、このトキメキは今だけだからね、ほら、行くよ!」
強引にズンズンと歩いていく彼女に、僕は一つ、溜め息を吐いた。
彼女は昔からそうだ。思い込んだら真っ直ぐ、何も考え図に目標に向かって一直線。なら、今回も何かを言った所で、無駄に終わる可能性が高い。
モモを軒先に繋ぐその背中を見つめつつ、ぽつり。
「……どうなっても、僕は知らないからな」
不服げに唸る、一匹の犬……もといカミサマを追い抜いて、メイが勢いよく、引き戸を開ける。"こすもす屋"は、まだ午前八時だというのに、どうやら開店しているようだ
扉の向こうには、どこか胸の奥をくすぐるような、セピア色の光景が広がっていた。十円菓子の並んだ棚、ボトルに入った乾物や紐飴、当たり付きのガムなんてのは、もう年単位で口にしていない。
壁際に飾られた大きな向日葵の絵は、年季が入り、僅かに変色していた。"こすもす屋"なのに向日葵なんて、と茶化していたのが、随分と懐かしく思える。
僕が最後にこの店を訪れたのは、もう五年以上前のことだったはずだ。子供の頃の記憶はどうにもはっきりしない。残り香のようなノスタルジーが、柔らかく、鼻腔と眼窩を突き刺していた。
そして、店の奥に視線をやれば、目的の人物はそこに掛けていた。
古いレジが設置された、背の低いカウンターの中。丸く、分厚いレンズの眼鏡をかけた、柔和そうな顔つきの老婆がひとり。
僕は、彼女の名前など知らなかったが、メイによれば、"アキヨ"であるという。昔からこの店にはよく通っていたが、聞いたのは初めてだ。
深くシワの刻まれた瞼がゆっくりと上がり、その深い色をした瞳が、僕たちに向けられる。
「おや、いらっしゃい。こんな時間に、ずいぶんと早いねえ」
彼女は、僕の記憶と寸分違わぬ姿のまま、落ち着いた声で語りかけてくる。
思い出の中にピースを当て込むように観察していた僕は、僅かに反応が遅れる。その代わりに、メイが一歩前を行く。
「おはよう、おばあちゃん。今日も元気そうだね!」
「おやあ、メイちゃんかい。そっちこそ、朝から溌剌で何よりだよ」
二人は親しげに言葉を交わす。僕は随分とご無沙汰していたが、メイは、そうではないようだった。
談笑が始まりそうな気配に、少しだけ居心地の悪さを感じていた。何ならもう、絵馬を彼女に渡して、僕はモモと外で待っていようかと、そう考え始めたあたりで。
「……そこにいるのは、もしかしてアスタくんかい」
嗄れた声が、こちらに向けられる。
撤退を始めようとしていた背中は縫い留められる。こうなれば、無視するわけにもいくまい。
「は、はい。まあ、そうです」
「あらあ、大きくなったねえ……少し見ないうちにねえ。今は、メイちゃんと同じ高校生?」
う、と。言葉に詰まる。
それは、ここ数ヶ月で何度も味わった感覚だった。親戚、近所の住人、それに、中学時代の友人たち。悪気なく訊かれた、何の気なしの質問に、僕は答えることができない。
高校生という肩書は、確かに持っていた。
しかし、今の僕は、その抜け殻でしかない。その実感が、自然と眉根を寄せた。
「まあまあ、おばあちゃん。それは一旦、いいんじゃない? 今日はちょっと、別に聞きたいことがあって来たんだ」
メイが出してくれた助け舟に、僕は大人しく乗ることにした。懐から例の絵馬を取り出して、アキヨさんに突きつける。
「……こいつのことなんだ。これ、アキヨさんが書いたもので間違いないか?」
彼女は、眼鏡の位置を直して、絵馬を凝視する。そこから、一心拍の間を置いて。「ああ」と、表情を綻ばせた。
「懐かしいねえ、こんなもの、どこで見つけたんだい?」
「どこで、って、まあ、そんなのいいじゃんか。とにかくこの願い事は、アキヨさんのものってことでいいんだな?」
神社での一件は伏せることにした。あんな寂れきった神社とはいえ、勝手に物を持ち出したとなっては、後から面倒事になる可能性も高い。
結果として詰め寄るような形になってしまったが、アキヨさんはにこやかな表情を崩さなかった。
「ええ、そうねえ。もう、何十年も昔のことになるけれど、それを書いたのは、私だよ」
メイが、驚きの視線をこちらに向ける。いや、この絵馬がアキヨさんのものだと言い出したのはお前だろうに、とツッコミを入れたかったが、それはひとまず置いておいて、本題に入ることにした。
「……そうか、いや。実はな、僕は訳があって、この願い事を叶えてあげたい……叶えなきゃいけないんだ。構わなければ、この"あの人"って誰のことなのか、教えてくれないか?」
自分でも奇妙な頼み事ををしている自覚はあった。現に、隣に立つメイは怪訝そうな表情を浮かべている。
それはそうだ、僕だって急に、「あなたの願い事を叶えたい」なんて言われたら、詐欺か宗教勧誘を疑う。
しかし、アキヨさんはそんな僕の奇矯な頼みを、茶化したりはしなかった。ただ、戸惑うように二度、三度と視線を彷徨わせてから、僅かに口元を綻ばせる。
「あらあ、それは嬉しい話だねえ。でも、たぶん難しいと思うわよ」
「そりゃまあ、難しいは難しいだろうけど……もう、長いこと会ってない人なのか?」
「ええ……もう、五十年以上になるかしら」
「五十年!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、メイだった。僕も同じくリアクションを取りたかったが、先手を打たれてはそれもやりづらい。
「……それは、確かに大変そうだな。アキヨさんの、若い頃の知り合い、ってことだよな?」
僕の言葉に、アキヨさんは少しの間、考え込むように俯いた。知り合い、という関係は適切ではなかったのだろう。慎重に、選ぶように思考の間を置いてから。
「知り合い……そうねえ、そうなるのかしら。今となっては、なんだかぼんやりしてるわ」
「ぼんやり……?」
歯切れの悪い物言いが気になったが、それを追及するよりも早く、メイが一歩前に出る。
「そうじゃないよ、アスタ! まったく、わかってないなあ!」
「……朝から声がでかいんだよ。わかってないって、何が」
「知り合い、じゃなくて恋人! そうでしょ、アキヨさん!」
適正値の五割増しの声量で尋ねた彼女にも、アキヨさんは眉一つ寄せない。年の功というやつだろうか。
ただ、笑うだけだ――しかし、少しだけ困ったように、眉を寄せて。
「……恋人、そうなれたら、よかったんだけどねえ」
「そうなれたらって、もしかして、片思いで終わっちゃったとか?」
「おい、メイ、流石に不躾にものを聞きすぎだ、少しは――」
「いいのよ。思い出話は、しないと色褪せちゃうもの。どんなに大切なことでも、口にしなきゃ錆びついてしまうわ」
そう口にする彼女は、どこか寂しそうだった。瞳の色が、記憶の奥底に潜るようにして、さらに深くなる。
「……私とあの人は、お互いのことをそこまで深く知ることができなかったの。会うのは、金曜日の夕方。町外れの向日葵畑で、少しだけ」
「お互いのことを深く知れなかったって、それは、どういう……?」
尋ねた僕に、ただ、アキヨさんは視線を横合いに滑らせた。自然、僕らの目もそちらに向く。
視線の先には、古い向日葵の絵。太陽の方を向いて咲く花は、今、この時ばかりは別のものを見つめている。それを何と呼ぶのか、少なくとも僕には、"過去"という形容しか思いつかない――。
「――あの人はね、向日葵の向こうに、消えてしまったの」