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ねがいの灯火―犬のカミサマと願いの絵馬―  作者: さんささん
3章「忘れた"きみ"と褪せた絵本」編
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38話「変わるもの」

 医学や科学は、日々進歩している。


 あらゆる神秘は、その遺伝子を解析され、ヒトの構造すらも詳らかにされてしまった現代社会において、未踏の地はほとんど残っていない。


 あらゆるものに理屈があり、あらゆるものが法則に従っている。


 そんな風に、知の層積を、ある意味で盲信していた僕の思考は、簡単に打ち破られた。


「原因は不明ですね、ただ、命に関わるものではありません」


 モモを診た動物病院の医師――くたびれた白衣を纏った、壮年の彼は、降りてきた前髪を撫で付けながら、そう口にした。


 言い訳と診察の、丁度中間のような言葉を並べた後に、「夏バテか何かでしょう」と結んだその目に、僅かに諦めのような色が浮かんでいたのを、僕は見逃さなかったが、それを指摘できるような強さがあるわけでもない。


 結果、車で帰る両親にモモを預けた僕は――暗くなり始めた町を一人で歩いていた。


 目的があったわけではない。それでも、考えをまとめる時間が必要だった。


 ぐちゃぐちゃに絡まった思考を整理するために、脳内で箇条書きにしていく。


 ひとつ、裏山の神社は移設されていた。


 つまり、あの神社にはカミサマなど、いなかったのだ。なのに、モモは体を乗っ取られた。


 ふたつ、白紙の絵馬は、■■が書いたものではない。


 これは、モモの言だ。どこまで信じたものかは分からないが、嘘を言う必要もないだろう。


 そして、みっつ。何故か、モモは倒れてしまい――今も目を覚まさない。


 モモは言っていた。もう、時間がないのだと。

 どうして、急にタイムリミットが来たのだろうか? 


 体を乗っ取ることができる時間には限りがあるのかとも思ったが、それなら、元のモモに戻るはずだ。現在、こうして伏せっている理由にはならない。


 何かあるはずなのだ、自称カミサマが弱る原因が。そして恐らく、それは彼/彼女の正体に直結している――。



「――難しい顔をしているな、アスタ」



 不意に投げかけられた声。凛とした、筋の通った、張りのあるアルト。


 半ば反射的に顔を上げれば、そこに立っていたのは――サユキさんだった。


 仕事帰りなのだろうか、パンツスーツ姿に、肩掛けのバッグを携えた彼女は、その色素の薄い瞳を、僕に真っ直ぐ向けている。 



「……こんばんは、サユキさん。こんな所で、どうしたんすか?」


「どうした、はこっちの台詞だ。君の家、こっちじゃないだろう」


「サユキさんだってご近所さんなんだから、一緒じゃないっすか。こんな所で――」


「煙に巻こうとするな、一人でなんでも抱え込むのは、別に美徳でもなんでもないぞ」



 目元が、細く、そして鋭く引き絞られる。

 胸の奥まで見抜かれるかのような瞳に、思わず足が竦んでしまう。


 浅ましい隠し事なんて、何の意味もないかのように、超然とした態度で相対する彼女は、答え倦ねる僕に呆れたのか、一つ息を吐いた。


 そして、ヒールの音が、かつ、かつ、かつ。まるで秒針のように正確に、近づいてくる。


 サユキさんはそのまま、僕の隣に並ぶと、軽く背を叩いた。ほんのちょっとした衝撃だったのに、脆弱な僕の体は、そのまま前につんのめりそうになった。



「……ふん、なんて顔をしているんだ。しゃんとしろ、男の子だろう」


「――っと、んなこと言われたって、僕だって色々……」


「まあ、いいさ。少し歩こう、気晴らしに足を動かせば、口だって緩むだろうからな」



 行くぞ、と先をゆく黄金色の髪に、ついていくべきか一瞬だけ迷った。


 期待も、ある。サユキさんなら、僕の懊悩に何らかの決着をつけてくれるんじゃないかと、そう感じているのは間違いない。


 問題は――僕の方だ。結論が出るのを、結論を出してしまうのを恐れている。


 知りたいはずなのに、知ってはいけないような。そんな怖気がずっと、背筋の辺りに留まっているのだ。


「――アスタがこの町に帰ってきて、もう、半年くらいになるか?」


 不意に、サユキさんが呟いた。

 まるで、とぼけるような、白々しい口調だった。



「……そんなに経ってないっすよ、せいぜいが、3ヶ月か4ヶ月でしょう」


「そうか、そんなものか。とはいえ、1年の3分の1程度は、経過したわけだ」


「それは、そうですね。もう、そんなに……」



 そんなに、時間が経ったのか。


 大人にとってはどうか知らないが、僕たちにとっての3ヶ月、4ヶ月という時間は、決して軽いものではない。


 高校生活は、3年間しかない。僕にとっては、残り2年だったはずなのだ。それが、大きく擦り減ってしまったことを意味している。


 この先、僕がどうなるのか。受験か、就職か、それとも、どちらにも舵を切れずに沈んでいくのか。どうあれ、決して影響は少なくないだろう。


 一瞬、思考のせいか、足取りが鈍る。そんな僕を見て、サユキさんは僅かに口角を上げた。



「そんなに、と考えられるか。ふむ、ならまだ、君は大丈夫そうだな」


「……何がっすか。そりゃ、そんなに、でしょうよ」


「そう感じられるうちは、まだ大丈夫だ。腐れが酷くなれば、その感覚も失われていく。過ぎ行く時の流れを感じる力は、次第に麻痺していく」



 見ろ、と彼女は正面を指差した。


 それに沿って視線を向ければ、見えたのは、一件の古民家だった。しかし、暗くなっているというのに、灯りの一つも灯っていない。


 よく見れば、周囲には規制線が張られていた。どうやら、解体されるようだ。家、というよりも人の営みの抜け殻とも言うべきそれは、目視たままで、弔われるのを待っている。



「――ここら一帯、古い家は潰して、商業施設の誘致をするそうだ。私たちの家がある住宅地に比べると、この辺りは過疎化も酷く、独居老人や空き家も多い」


「だから、潰して、金になるもんを建てようって腹っすか。なんか、大人って感じっすね」


「そういうものさ、万事な。何もかもが移ろう、定型などない、君の愛した景色も、やがては風化し、変わっていく」


「愛してなんか、ないっすよ。僕は、この町が嫌いだったんだ、嫌いで、嫌いで、仕方がなくて――」



 そう口にすればするほど、心に澱が溜まっていく。


 そんなに憎らしくは、なかったはずだ。ただ、倦んだ景色に、少しだけ退屈を感じていた、それだけのはずだったのに。


 ――町を出たのも、突き詰めれば、その無聊を慰めるためだったはずだ。


 それがいつしか、歪んでしまっていた。失敗を隠すために、繰り返した言葉が、心の形を変えてしまっていた。


 はたと、足が止まる。その古民家は、歩くたび遠目に、視界を掠める程度の存在だったはずた。


 しかし、その背景は失われる。もう二度と、同じ形に戻ることはない。


 それを寂しいと思える程度の温度は――まだ、僕の心に残っていた。


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