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ねがいの灯火―犬のカミサマと願いの絵馬―  作者: さんささん
2章「凍てついた今と君の顔」編
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29話「忘却、懐古、リマインド」

 階段を降りきったところで、玄関に立つメイの姿が見えた。


 昼間、動画越しに見た彼女は、学校指定のスカートにクラス製作のTシャツという出で立ちだったが、どうやら着替えたようであり、見覚えのある部屋着のようなラフな服装に変わっていた。



「こ、こんばんは、アスタ。ごめんね、急に押しかけちゃって」


「……そういうの、気にする柄じゃないだろ、お前」



 なんとなく、気まずい。

 互いの間に流れる、微妙な空気が、どうにも居心地が悪かった。だから、それを断ち切るために。


「……ちょっと、外出ようぜ。何か話があるんだろ?」


 僕はそう口にして、サンダルを突っかけ、彼女を追い越して玄関の扉を潜る。



 途端、全身を包む生温い空気。今日も今日とて熱帯夜。酷い湿気を帯びた、重い空気。どれもが酷く不快だったが、これはもう、どこに行っても変わらないものだと諦める。


 無言のまま、僕は歩き続ける。後ろからついてくる控えめな足音だけが、メイの存在を示しているかのようだった。


 さて、と。歩きながら考える。どこに向かおうか、何も考えずに飛び出してしまった。


 腰を落ち着かせて話すことができる、喫茶店などがあればいいのだが、生憎、この田舎町ではそんなものは皆、日の入りとともに閉店してしまう。


 どうしたものかと歩を進めるうち、ふと、メイの足音が聞こえなくなったことに気がついた。


 振り返れば、彼女はある場所の前で足を止めていた。何の変哲もない、児童公園。この町に大きな公園などいくつもないので、幼い頃は僕らもよく、ここで遊んでいた。


「……なんか、懐かしいね」


 彼女がぽつり、呟く。僕はなんとなく、入り口の車止めに腰掛けながら、同じように、その暗い場景に視線を這わせた。



「……そうだな。ほんの何年か前までは、ここで遊んだりもしてたはずなのにな」


「アスタ、覚えてる? 小学校の頃さ、私がここで、お母さんの形見のブローチ、失くしちゃった時のこと」


「覚えてるよ、お前がビービー泣いて、帰らないって言うから、日が暮れるまで探したもんな」


「中学生の子らに占拠されて、アスタが話しに行ったこともあったよね」


「懐かしいこと覚えてるな……ああ、そんなこともあったな、我ながら、馬鹿なことしてたもんだよ」



 答えながら、僕は訝しんだ。

 てっきり、今日のことについて話すものだと思っていたのに、何の話だろうか。


 思い出話なら、いつでもできる。わざわざ呼び出す必要などないだろうに――と、そこまで浮かべたところで。


「私さ、怖かったんだ」


 メイは、僕の隣に腰を下ろした。体の幅より少し広い程度の車止めは、二人で座るには狭すぎる。


 けれど、そんなことに構うこともなく、彼女は続ける。



「アスタ、県外に出て行っちゃってさ。かと思ったら、突然帰ってきて、家から出てこなくなっちゃったじゃん?」


「……家からは出てたよ、モモの散歩とか」


「でも、人には会ってなかったでしょ?」



 それは、否定しない。


 挫折して帰ってきた僕は、色々なものを自分から遠ざけていた。傷付かないように、これ以上失わないように、おっかなびっくり生きていた。



「そんなアスタがさ、変わっちゃったみたいで、怖かった。私の知ってるアスタは、自信家で、皮肉屋で、なんだって真っ直ぐにやる人だったから」


「……中学の頃だろ。世間ってやつ、知らなかったんだよ」



 胃の中を、今でも渦巻くものがある。


 挫折の痕は、絶えず心を苛んでいる。疼痛に似た感覚、或いは、もっと厄介な何かが、いつまでもいつまでも、吐き気を催させるのだ。


 僕は、弱くなった。

 きっと、彼女が知る僕よりも。


 それは、他でもない自分が一番よく知っていることだというのに。


「――アスタ、何にも変わってなかったよ」


 メイは事もなげに、そう口にした。



「アキヨさんの時も、私の時も。自分が傷付くのも気にせずに、踏み込んできてくれる。他の人が見て見ぬふりをするようなことでも、手を伸ばしてくれる」


「……それは、事情があるから――」


「その、事情っていうのはさ」メイは、まるで全てわかったような口調で。

「自分の痛みよりも、自分の傷よりも、優先するものなの?」



 僕は、それに答えられなかった。


 絵馬の願いを叶えなければ、モモが帰ってこないから。

 たまたま、絵馬に願いを書いたのが、メイやアキヨさんだったから。


 理由なんて、そんなものだ。他にはない。少なくとも、僕は今までそう思ってきた。


 そう思おうとしてきた。


 しかし。


「……今日ね、すごく久しぶりに、お父さんと話せたの」


 メイは、そんな僕の弱さすらも、許さぬように、言葉を止めることはない。



「お父さん、すごく、ばつが悪そうだったなあ。でも、ちゃんと話してくれたよ。学校のこととか、今日のライブのこととか」


「……そうか、そりゃ、よかったな」


「きっと、アスタが力を貸してくれなかったら、これからもずっと、私とお父さんは離れ離れだった。それを、繋ぎ止めてくれたんだよ」


「……買い被りだ、僕は――」



 僕は、の先は、出てこなかった。


 自分でも自分の気持ちがわからない。上手く誤魔化せていたはずの感情が、剥き出しになっていく。



「ありがとうね、アスタ」微笑みながら、彼女は。

「私のお願い、叶えてくれて」


「……別に、お前の願いを叶えた訳じゃないさ」



 僕は、ゆっくりと腰を上げた。節電の名目で電気の消えた公園内は、一寸先も見えないほどに暗い。


 そこに背を向けながら、口を衝いたのは、幾度となく胸に響いた言葉。



「――願いごとは、叶わないものなんだよ、メイ」



 叶わないから、僕たちはここにいる。

 望まぬ場所で、息の仕方を探している。


 ただそれだけのこと。それだけのことなのに、どうしてこんなに、物悲しいのだろうか――。



「……アスタ、その言葉、さ」


「なんだよ、誰かの受け売りだけど、わりと芯を食ってると思うぜ」



 だからこそ、この言葉は僕の深い所に在り続けるのだ。


 世界にご都合主義はない。大団円もない。故に、落ちぶれた自分にも折り合いがつけられるし、いつか見た憧れからも、目を背けられる――。



「――違う、そうじゃないの」



 強い言葉で、メイが否定する。その表情はどこか、悲壮感すら感じるもので。


 その続きを聞くことを、躊躇わせるようなもので。


 周囲から、音が絶えた。草葉の中で虫は鳴くのを止め、電灯から聞こえていたコイル鳴きの如き不快音は、息の根を止めた。


「……そうじゃないって、何がだよ」


 そんな、凍りついた世界の中で、僕は尋ねる。

 尋ねてしまう。



「もしかして、アスタ、覚えてるの?」


「だから、覚えるって何がだよ、僕は――」




『――ねえ、アスタ。今日は、何して遊ぶ?』




 ズキン。

 頭の奥に、鉄棒を捩じ込まれるような痛みがあった。


 何かが、僕の頭蓋骨を抉じ開けて出てこようとしている――そんな気配が。


 それでも、その続きを聞くことを止められない。誰も、止めてくれない。


 時間が絶えず流れるように、否応なく、僕も押し流されていく。



「――■■ちゃんのこと、覚えてるんでしょ?」



 モモの言葉が、正しく聞き取れない。

 こんなにも暑い夜なのに、寒気が止まらない。


 ただ、ひとつ、確かなことがあるとするのなら。

 僕は何かを、忘れようとしていたということだ――。


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