2話「カミサマの絵馬と願い事」
モモ。正しくは、モモタロウという名の、ウチの飼い犬は、僕にとっては無二の親友のようなものだ。
やんちゃをして、家から閉め出された小学校時代、人並みに思春期の悩みを抱えていた中学時代。
いつでも、彼はすぐそばにいてくれた。鬱憤が溜まれば、僕は彼を散歩に連れ出し、気晴らしにしていたのだ。
そして、今回もそうなる予定だった。
しかし。
「ボクはこの神社のカミサマさ。この子の体を返してほしかったら、ボクに力を貸してよ!」
まさか、神を名乗り始めるとは思わなかった。
混乱する頭で、少し考える。神? そんなのいるわけがない。僕はそう言い切れる程度には無宗教の人間だ。
とはいえ、目の前で犬が喋っているのは確かだが……僕がついに狂ってしまったか、何かの錯覚だという方がまだ説明がつく。
「……はは、駄目だなやっぱ、人間ずっと引きこもってると、どこかしらおかしくなってくるもんだな……」
「ちょっと、何それ失礼じゃない? いきなり人……いや、カミサマのことを幻覚呼ばわりする気?」
キンキンと響く声。変声期前の小学生を思わせる中性的なそれは、どこか懐かしさすら感じさせるが、今現在においては、耳障りなだけだ。
取り敢えず僕は、頭の中に渦巻いたあれこれを、ため息とともに追い出した。ひとまず、何が目的なのかを聞いてみなければ話にならない。
「な、なんだよお前……力を貸せ、って言ったって、僕にどうしろっていうんだよ」
自慢じゃないが、僕は学校を辞めてからの三ヶ月間、モモの散歩以外に、まともに外出をしていない。
貸してくれと言われても、そもそも僕にできることなどあるのだろうか?
しかし、自称カミサマは、そんな僕の事情などお構い無しに続ける。
「よく聞いてくれたね! 簡単なことさ……君は、この神社を見て、どう思った?」
「どうって、そりゃ……」僕は辺りを、わざとらしく見回してから。「控えめに言って、廃墟ってとこか?」
「そう! すっかり寂れちゃったんだよ、この神社は。これじゃ、ボクに集まるはずの信仰も足りなくなって、大ピンチなの!」
まくしたてるように言うモモに気圧されつつ、僕は周囲の観察を続ける。
落ち葉は散らかり、社は壊れ。確かに人の手が入っているようには見えない。彼の言う、寂れているという範疇は、とうに超えてしまっているようにも思えた。
「……確かに、僕もこんな神社があるなんて知らなかったからな。忘れられた場所……って感じなのか?」
何の気なしに口にした言葉だったが、それを聞いたモモの目が、悲しそうに萎むのが見えた。それが何だかバツが悪くて、慌てて取り繕う。
「ああ、悪い悪い。別に、お前を凹ませたいわけじゃなかったんだよ」
「……いいんだ。どうせ、君だって覚えてないんだから」
拗ねたように言う彼に、僕は肩を竦めた。何が悲しくて、突然喋り始めた犬の機嫌を取らなければいけないのだ。
とはいえ、ここで押し問答を続けるわけにもいかない。Tシャツの裾から伸びる腕を虎視眈々と狙う藪蚊を叩き潰しながら、僕はひとまず、話を進めることにした。
「それで、どうしろっていうんだ? まさか、この廃墟の普請を手伝えなんて、そんな無茶を言うわけじゃないだろうな」
「まさか、君にそこまでは期待してないよ。見たところ、ヒョロヒョロで大工仕事なんかできそうにないしね」
ヒョロヒョロは余計なお世話だ。
ともあれ、では一体、何を望むというのか。神が人に要求するものなんて、予想もつかない。
「なあに、簡単なことさ。君にはボクの、信仰を集める手伝いをしてほしいんだ」
「信仰? なんだそりゃ」
「その名の通り、ボクというカミサマを信じる人を増やすお手伝いをしてほしいってこと! そうすれば自然と、この神社だって建て替えとか修繕とか、何かしらしてくれるだろうしね!」
「何かしら、って。そんなの……」
「あー、はいはい、弱音は結構! それで、手伝ってくれるの? くれないの?」
ムカつくバイト先の上司みたいな喋り方しやがって。と、腹の奥で何かが沸騰しそうになったが、それはそれ。こいつに殴りかかりでもして、これ以上面倒臭い状況になるのは勘弁願いたい。
「……それを手伝えば、モモの体は返してくれるんだな?」
「勿論、カミサマは嘘をつかないものさ。意図的に本当のことを言わないことはあるけどね」
それを人は嘘と言うのだが。
ここでで追求することに、意味を感じない。そもそも犬と言い合いをするなんてのがナンセンスだ。だから、ここは僕が俺でやることにした。
「……なら、やるよ。なんだか知らないけど、お前の手伝いをすればいいんだろ」
正直、気乗りはしない。
モモが喋っているという現状ですら飲み込めていないのに、そこに加えて、厄介事まで抱え込むなんていうのは、御免だ。
だが、彼が返ってこなければ、僕の拠り所は無くなってしまう。現実逃避のために散歩をすることも、人には聞かせられないような鬱屈を吐き出すことも、全て。
それに自分が耐えられるかどうかなど――考えなくてもわかる。
「そう、そうだよ! いやあ、君は話がわかるねえ、助かるよ!」
「いや、話がというか、人質……犬質取られるしな、他に選択肢がないだろ」
どうせ、時間はあるのだ。それこそ、吐いて捨てるほどに。
「でも、僕は信仰の集め方なんてわからないぞ。そういうのって、地道にやっていくしかないんじゃないのか?」
例えば、本殿を綺麗にして、人がここまで足を運びやすくして……そんな作業が、僕のような子供一人でできるとは思えない。
ましてや、僕は高校生活からも逃げ出した意気地なしだ。地道、とか、堅実に、とか。そういった言葉とは対極にいる存在である。
しかし、自然と眉間に寄るシワを自覚しつつ、悶々とする僕とは対照的に、モモは楽観的に尻尾を振っていた。
「大丈夫大丈夫、そこに関しては、ボクにひとつ、妙案があるんだ」
彼はそう言ったかと思えば、軽い足取りで崩れかけの本殿に近付く。
そうして、前脚を使って、器用にその扉を開けた。枠も歪んだ木戸は、口を開けると同時に呻き声に似た音を発する。
促すように、モモが前脚で社の中を指す。導かれるようにして、僕も歩み寄り、中を覗き込んだ。
――そこに残されていたのは、三枚の絵馬だった。
幅広の五角形。誰もが初詣なんかで目にしたことがあるであろうそれは、暗がりの中でもはっきりと視認できる。
――淡く、蛍火のように、その表面が輝いているのだから。
「……なんだよ、これ」
驚愕する僕に、モモは得意げに言う。
「"願いの絵馬"さ。この神社が寂れる前に奉納された、最後の三枚。こいつの願いを叶えればきっと、ボクの信仰だって返ってくるに違いないよ!」
そういうものだろうか。
曲がりなりにもカミサマが言っているのなら、まあ間違いはないのだろうが。そんなに上手くいくとは、とても思えない。
だが、現状でそれを否定するのは、ある程度の労力がかかる。簡単に言えば、面倒臭かったのだ。だから、適当に手前の一枚に手を伸ばす。
指先を伝う、冷たい木の感触。ひんやりとしているのに、どこか温もりを感じるような質感が、かえって新鮮なようにも思えた。
「うんうん、やる気いっぱいでいいね! 流石は、神の使い第一号クンだ!」
「それ、止めてくれよ。僕には葉村明日太っていう、立派な名前があるんだ」
どれだけ名前が立派でも、中身がそれに伴うとは限らないが。
頭に浮かんできた自嘲的な言葉を、鼻で笑い飛ばす。明日から目を背けた僕には、勿体ない名前だ。
「明日太……アスタだね、うん、いい名前じゃん! 前向き こちらは、愛犬の体を乗っ取られているのだ。申し訳ないが、そんなに気安く挨拶を交わすような気にはなれない。
そっぽを向く僕に、モモは飛び付いてきた。端から見れば、山の中で犬とじゃれ合っている変わり者に見えるのだろう。もう、それも仕方ない。
「さ、行くよ、アスタ! さっそく一つ目の願い事を叶えようじゃないか!」
そう、胸を張り続け駆けていく彼に、適当な返事をしつつ、手にした絵馬に目を落とした。
薄く光をまとったそれは、明らかに尋常のものではない。いよいよ目玉がおかしくなってしまったという可能性に震えながら、僕はその表面に、視線を這わせた――。