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1話「曲がった僕と、夏日星」

 目覚ましの音が嫌いになったのは、いつ頃からだろうか。


 ジリリリリ、と鳴り響くステレオタイプな音が鼓膜を揺らすたび、体は鉛のように重くなっていく。枕元の時計を叩いて黙らせてから、目の奥にじわりと染み込むような頭痛と共に、僕は(まぶた)を開ける。


 そうすればすぐに、半開きのカーテンから射し込んできた陽射しが、僕の網膜を焼いた。それを涙交じりの欠伸で誤魔化して、ゆっくりと立ち上がる。


 生温い空気は、湿気のせいか吸い込めば吸い込むほど重さを増していく。


 けれど、世界は僕の鬱屈など憂慮(ゆうりょ)はしてくれない。適当に身支度を済ませ、自室を後にする。


 玄関には、既に僕を待っている影があった。興奮した様子で尻尾を振る姿は、丁度腕にひと抱えくらいの大きさの、小麦色の毛玉に見える。


「……モモ、こっちにおいで」


 飼い犬――そろそろ生後7年になる豆柴のモモこと、モモタロウを、僕は手招きで呼び寄せる。嬉しそうに近付いて来た彼の首輪にリードを繋げば、待ち切れないとでも言いたげに、小さく鳴き声を上げる。


「アスタぁ、あんたまた、こんな早くに散歩に行くの?」


 と、不意に背後から、母の声が響いた。支度をする音で起こしてしまったのか。どうあれ、僕は返事をしなかった。


 酷く蒸し暑い朝だった。できるだけ人と会わぬように早朝を選んでいるというのに、太陽が僅かに頭を出した程度で、世界はじわりと汗ばんでいく。


 靴紐を結ぶ指先の感覚が遠い。まだ、心が半分、布団の中に置き去りになっているようだった。



「あんた、外に出るようになったのはいいけどね、こんな早くに連れ回したら、モモくんがかわいそうでしょ?」


「……そんなことないよ、モモは、喜んでるし」



 素っ気なく返す僕を急かすように、右手に握ったリードが引かれた。嬉しそうに尻尾を振り、息を荒げて、僕の用意を待っている。


 いってきます、の言葉は飲み込んだ。まるで砂を詰めたナイロン袋のように重くなった体を持ち上げて、僕は玄関の戸を開ける。


 鬱屈とした気持ちと共に踏み出せば、いつの間にか、庭先に朝顔が咲いていた。鮮やかな紫色は、今の僕には少しだけ目に毒だ。


 息を吸えば、過剰なまでの湿度が、夏の訪れを思わせる。きっと南中に近づくにつれ、少しずつ気温は上がっていくのだろう。


 世界は僕を乗せずとも、変わらずに回り続けている。



 僕――葉村明日太(はむらあすた)が高校を辞めて、もう三ヶ月ほどが経った。見栄を張って選んだ県外の学校は水が馴染まず、気が付けばこうして実家に帰ってきて、日がな一日天井を眺めているか、犬を散歩に連れ出しているかのどちらかだ。


 家に籠もっていても、気持ちが滅入るばかりで碌なことがない。ゲームや読書は、焦燥感を煽るばかりで、気晴らしにもならなかった。


 しかし、外を出歩くにも、近所の目が気になる。その結果が、この早朝の散歩である。


 歩き慣れた道を、リードに引かれるまま歩き続る。


 七月も半ば、土曜の早朝。まだ目覚めたばかりの街並みは、起き抜けの朧気さで、僕たちを迎えてくれた。


「ばぅ、わぅ!」モモが小さく吠える。寝起きの気だるさが、足取りに出てしまっていただろうか。


 彼は、僕のそういった変化に敏感だった。十歳の誕生日に家族として迎えてから、思えばもう、人生の半分近くを共にしている。それなりに長い付き合いだ。 


「ああ、ああ、わかったよ。あんまり吠えるなって、朝早いんだからさ……」


 僕はそれを適当に制しつつ、いつもの曲がり角を折れる。ここから、町内を軽く回って、最後に公園で少し走らせてから帰るのが、お決まりのルートだ。


 もう、目を(つむ)っても辿れそうな道のり。だから、何の気なしに、そのまま足を踏み出して。



「おうい、アスタ、お前、そっちは通れねえぞ!」



 不意に、背後からかけられた声に呼び留められる。


 見れば、視線の先に一台の軽トラックが止まっているのが見えた。側面に"サイクルショップ・アキレア"と書かれた、煤けた車体の窓から、片腕を出し、愛想よく挨拶をしている。


 少しだけ気が滅入るのを感じながら、僕は車に近付く。運転席に掛けていたのは、三十代前半くらいの男。分厚い筋肉質な体つきと、短く刈り上げた髪は、僕がよく知る頃から変わっていない。


「……明樂(あきら)先生、今朝は随分と早いっすね」


 僕は先を急がんとするモモのリードを強く掴みながら、適当に返す。



「がはは、まあな。ちっとばかし昨日飲みすぎちまって、朝イチで車取りに行く約束してたのよ。お前さんは、今日も散歩かい?」


「ええ、まあ。明樂先生こそ――」


「ちょっと待て。その"先生"ってのは止めねえか。俺はもう、教師じゃないんだからよ」



 そうでしたね、と適当に濁す。正直、この人のことがあまり得意ではなかった。


 中学時代の担任教師――そして、今は実家の自転車屋を継いだこの人は、今も僕を見かければ声をかけてくる。先生じゃない、なんて言うくせに、まるで先生みたいに。



「まあ、そんなことはどうでもいいだろ。それより、そっちの道は昨日から通行止めになってるぜ。散歩するんなら、裏山の脇道にしといたほうがいい」


「……そうっすか、ありがとうございます」



 半ば逃げるように、僕は会釈をして歩き出した。話が長引けば、訊かれたくないことを訊かれるかもしれないと思ったからだ。


 しかし、その予感は当たってしまう。


「なあ、アスタよう。お前もう、学校に戻る気はねえのか?」


 その問いかけに、僕は一瞬だけ足を止めた。同時に、キリキリと胃が縮むような感覚が、腹部を締め上げる。


 けれど、それを目の前の彼にわかってもらうのが不可能であることは、とっくに諦めていた。僕の痛みは、僕にしかわからないものなのだと、深く息を吸って、飲み下す。


「……はい、まあ。もういいですか、散歩、続けなきゃなんで」


 額に伝う脂汗を拭う事も出来ずに、僕は歩き出した。背後で明樂先生が僕を呼び止める声が聞こえた気がしたが、無視して歩き続ける。


 リードに引かれるまま歩を進めれば、ふと、見慣れた道に出た。中学時代、通学路として使っていた通路だ。


 この町は、何でも「芸術と自然の町」というのが売りらしい。何某とかいう有名な絵本作家が生まれた町だとかで、よく、駅前で個展のようなものを開いているのを見かける。


 それが半分。残りの「自然の町」というのは、何ということはない。開発が進んでおらず、あちこちに人の手が入っていない山林が残っている――ただ、それだけの話。


 野山には草木が生い茂り、人里まで降りてきた野生動物が目撃されるなんてことも、しょっちゅうだ。


 どこか停滞した、倦んだような空気の漂うこの町が、僕は嫌いだった。だから、高校入学と同時に、町を出ることに決めたのだ。



 そのはず、だったのに――。



「ばう、ばうっ!」


 深く沈んでいた思考が、モモの鳴き声で引き上げられる。顔を上げれば、もう、すぐそこに二年前まで通っていた中学校と、その裏に(そび)える山の影が見えていた。


 先述の通り、この町には手つかずの自然が多く残されている。


 特にこの裏山は、その最たるものだろう。管理する者がいないのか、草木は伸び放題。自然の植生に任せるまま、無数の命を内包して、そこに立っている。


 とはいえ、別に登るわけではない。今日はその脇をすり抜けて、学校の周りを軽くひと回りしてから帰ろうか。そんな風に考えつつ、僕はぼんやりと、脇道に足を踏み入れて――。

 



 ――不意に、強く右手を引かれる。




 見れば、握ったリードの先――モモが興奮した様子で、駆け出していくのが見えた。


「……っ! おい、モモ、なんだよ急に……!」


 短い手足を思い切りバタつかせて走るその後を、僕はどうにかついていく。運動不足の体では、置いていかれぬようにするので精一杯だ。


 モモはそのまま、裏山に向かって駆けていく。麓に停められていた大型の重機の間を縫うようにして、斜面を駆け上がっていく。


 しばらくの間は食らいついていた僕だったが、流石に心拍と肺活量の限界を迎え、指に込めた力が緩む。そうなれば自然、するりと、リードは僕の手を抜けて、どんどんと遠ざかっていく。


「……なっ、ちょ、待てって……!」


 太腿に乳酸が溜まっていくのを感じながら、僕は、モモが駆けていったと思われる方向に歩いていく。


 もう、追いつけはしないかもしれない――けれど、立ち止まるという選択もできず。腰ほどまである、背の高い夏草を踏み倒しながら、山道を行く。


 そうして、三十分ほど歩いた頃だ。


 木々の間に、何か、人工物めいた直線が見えた気がした。建物か何か、そんなものが、この山にあっただろうかと、さらに歩を進めれば、やがて、鮮明に見えてくる。


 そこにあったのは、神社だった。


 まず目に入ったのは、あちこち塗装の剥げた鳥居。次に、すっかりと寂れ、雑草まみれになった境内。本殿と思われる宮造りの小さな建物は、あちこちが虫に食われたのか、干乾びた柱も半ば崩れ落ちている。


「……こんなとこ、この町にあったのか」


 鼻を突く深い緑の臭いに、思わず顔を(しか)めつつ、境内の中に踏み入っていけば、綺麗に敷かれていたであろう石畳は、下から突き上げてくる雑草たちのせいで、酷く波打っていた。


 なんというか、単純に人が立ち入っていないだけではない。打ち捨てられて久しいような、そう、荒廃しているという表現が正しいかもしれない。


 こうなれば、心配になるのは愛犬のことだ。無闇に飛び込んでいって、柱や木々の倒壊に巻き込まれたりしなければいいが――と、気を揉んでいたが、すぐにそれは、杞憂だとわかる。


 僕の視線の先、モモは、その正面に置かれた、小さな長方形の箱――恐らくは賽銭箱なのだろう――の上に、ちょこんと座っていた。


 よくもこの短い手足で、そこまで登ったものだと、感心した僕は両手を広げ、できるだけ刺激しないように、彼に近づいていく。


「ほら、ほーら、モモ。そんな所登っちゃ駄目だろ。早くこっちに……」


 そう、呑気に近付く僕に、モモはゆっくりと振り返る――。



「――気安く近付かないでよ、ニンゲンがさ」



 ――そして、振り向きざまに、そう口にした。


「……は?」思わず、素っ頓狂(とんきょう)な声が漏れる。


 今のは、モモが言ったのだろうか? あまりにも現実離れした光景に、僕の思考は全凍結されたかのように、動きを止める。


 それを嘲るように、モモ(?)は鼻を鳴らした。



「ふん、何をマヌケな顔をしているのさ、ニンゲン。君、名前は?」


「し、ししゃ、い、犬が、喋って……」


「ああ、もう、話にならないね。そりゃあ、犬だって喋りたくなる時もあるだろうに」



 いや、そんな時はない。

 というか、喋る犬など見たこともないし、聞いたこともない。ましてや、こんなに流暢に。


 まだ、寝ぼけた僕が見ている夢だという方が納得できる。そう、早朝の散歩はやはり、無理があったのかもしれない。本当の僕は、今も布団の中にいて、ぬくぬくと寝過ごしている。きっとそうに違いない――。


「――目を覚ましなよ、ニンゲン!」


 そんな風に現実逃避していた僕の手に、勢いよく、小さな牙が食い込んでくる。噛まれたのだ、と認識するよりも早く、鋭い痛みが、腕から肩へ、そして脳に向かって走っていく。



「いて、いてててっ! 何だよ、お前、急に喋ったかと思ったら噛みついてきやがって……! 噛み癖なら、三歳の時に治ったんじゃないのかよ!」


「いつまでも呆けているからさ! 全く、ボクの前にいるっていうのに、敬意が足りないよ、敬意がさ」


「敬意って……そりゃ、お前、ウチの飼い犬だし……」



 ボソリと僕が呟くと同時、モモが怪しく目を光らせるのが見えた。僕の背筋に、不気味な悪寒が走る。



「へえ、この子、君んちの飼い犬なんだ……なら、丁度いいね!」


「何だよ丁度いいって。とにかく、もういいから帰ろうぜ……」


「そういうわけにはいかないよ、この体、もう、ボクがもらっちゃったんだから!」


「もらった……って、おい、それ、どういうことだ……!」



 動転したまま、僕は尋ねる。いきなり犬が喋り始めたり、かと思えば、体をもらっただの何だのと話し始め……正直、理解が追いついていなかった。


 そんな僕に、得意げに――或いは、どこか馬鹿にするようにして、モモは言い放つのだった。




「ボクはこの神社のカミサマさ。この子の体を返してほしかったら、ボクに力を貸してよ!」

 



 その言葉を、唖然としたまま、僕は聞いていた。


 七月も半ば。焼き直しのように続いていた日々が、少しだけ、その表情を変えていく――そんな気配がした。



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