17話「異変と秘密」
過労。
今をときめく高校生から、よっぽど遠いところにあるであろうその言葉は、僕の知る久木蒾という人間には、あまりにも似つかわしくない言葉だ。
とはいえ――目の前の中年教師が、僕に嘘を吐く必要もないだろう。ということは、まさか、本当に……?
「ついてきてください、久木さんの病室にご案内します」
ひとまず、歩き出した彼の後に、僕らは続いていく。
病院は、嫌いだ。靴裏に跳ね返ってくるリノリウムの感覚も、どこかステレオタイプな消毒液の臭いも、何もかもが腹立たしい。
メイの病室は、四階の角にあった。ノックを三度、そのまま、扉が開かれる。
「久木さん、入りますよ。今、葉村さんたちをお連れしました」
部屋に入れば、すぐに三つの空きベッドが見えた。どうやら今の彼女は、四人部屋を一人で使っている状況のようだ。
入って右手側、最奥のベッドのみが、カーテンに仕切られ、隠されている。その先には、布を一枚挟んだ向こうに掛ける、華奢な人影が見えた。
「……メイ、お前、なのか?」
僕は、恐る恐る声をかける。彼女であって、彼女ではない存在が、そこにいるような気がして。
ゆっくり、シルエットがこちらを向く。クーラーの風が、冷たくうなじを冷やしていく感覚が、どうにも、心地悪くて――。
「――ちょっと、アスタぁ! 来るの遅いよっ!」
――そんな僕の心配は、丸ごと杞憂に終わったようだった。
勢いよく、カーテンをこじ開けながら、メイは病院にあるまじき大声で叫ぶ。腕に繋がった点滴の管が気になるほどにダイナミックな動きに、思わずこちらも、面食らってしまった。
「大事な大事な幼馴染が倒れたんだからさ、もっと早く駆け付けようとか、思わないの?」
「……いや、これでも、明樂先生に車回してもらって、全速力で来たんだけどな」
「ありゃ、本当だ、明樂先生もいる。久しぶり!」
「お、おう……」明樂先生も、どこか圧倒されながら。
「元気そうで、何よりだぜ」
感想としては、僕もそれで全てだ。元気そうで何より。それ以上の言葉が出てこない。
――過労で倒れたという話ではなかっただろうか? その割には、声に張りがあるし、少なくとも、その振る舞いに疲労の色は感じられない。
ともかく、僕と明樂先生は、ベッドの傍らに置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。事情を詳しく聞いておいて、損はないだろう。
「それで、だ。お前、何があったんだよ。今、学校の先生には過労だって聞いたぜ」
それを聞いたメイの視線が、気まずそうに逸らされる。加えて、何かを言い淀むような仕草を挟む。
一体、どうしたというのだろうか。暫しの間、彼女は言葉を選んでから、表情を綻ばせた。
「い、いやあ、実はね、ここ最近、文化祭の練習頑張りすぎちゃってさ」
「……文化祭の、練習? ああ、朝練とかやってるって聞いてたけど、それを?」
「うん、うちの軽音、今年はライブをやるんだけどさ。なんだか、納得がいく出来にならなくて。それでずっと、練習してたの」
ふうん、と僕は、話を半分に聞いていた。まさか、それだけで、ぶっ倒れるほど無理をすることはあるまい。
何か、他の理由があるのだろう。そうは思っていたものの、何気なく、その話を掘り下げてみた。
「まあ、あんなに朝早くから頑張ってたんだもんな。ちなみになんだが、一日にどのくらい練習してたんだ?」
もしかすると、思い込んだら一直線のこいつのことだ。一日平均三時間程度は打ち込んでいてもおかしくない。
そんなに、一つのことに熱中できるというのは、ある意味で羨ましい。と、僕は不意に、去年のことを思い出していた。
高校に入学して初めての学園祭。あの時。僕は――。
「――十時間、くらいかな?」
――回想しようとしていた僕の意識は、突拍子もない彼女の発言に引き戻された。
「……は?」思わず、頓狂な声が出る。
「へ? ああ、だから、だいたい毎日十時間分くらいは練習してるかな?」
ひーふーみー、と指折り数えつつ、彼女はこともなげに言い放った。
「――何言ってるんだ、お前?」
再度、聞き返してしまう。何かの聞き間違いだろうか?
「いや、だから、十時間くらい。朝練をいつも二時間くらいで、放課後に学校で三時間くらい。帰ってからも、寝るまではずっと練習してるし……そのくらいだと思うよ?」
こともなげに言い放つ彼女をよそに、僕の視線は、彼女の指に向けられる。
その指先は――見る影も無いほどに、ボロボロになっていた。指はあちこちが擦り切れ、爪はささくれだって、少しヒビが入っている。
どころか、よく見てみれば、血色もあまり良くなさそうだ。恐らく、化粧品か何かで隠しているのだろうが、服の裾から覗く肌は病人のように青白く、目元には微かに、クマのようなものがある。
「……なあ、お前、もしかしてさ」
僕は訪ねようとした。こうして注視するまで、異変に気が付かなかった自分を恥じる気持ちが半分、純粋に、どうしてこうなったのかという興味が半分。
けれど、僕の問いかけは最後まで口にできなかった。被せるようにして、メイが声を張る。
「あー! そうだそうだ、アスタ。実はさ、呼んだのは、お願いがあったからなんだよね?」
「……なんだよ、お願いって?」
「うん、それが、二、三日検査入院することになっちゃってさ。着替えとか色々、持ってきてほしいんだよね」
「……は? なんで、僕がそんなこと」
首を傾げる。どうしてそんなことを、僕に頼むのだろうか?
そもそも、異性だ。幼馴染とはいえ、勝手に家に上がり込んで、物色するわけにもいかないだろう。
「えー、お願いだよう。アスタにしか、頼めないんだけど」
「だから、何でだよ。そんなの、それこそ親にでも頼めば――」
と、そこまでを口にしたところで、後ろから凄まじい力で羽交い締めにされる。この無駄に太い腕は、明樂先生のものだ。
彼は、僕の口を塞いで、それ以上の言葉を遮ると、わざとらしい大声を張る。
「お、おうよ。わかったぜ、どうせアスタは暇だからよ、俺が車飛ばして、すぐに取ってきてやるよ。な!」
「え、やったー! さっすが明樂先生、わかってるー!」
「おうよ、まあ、もう、先生は辞めたんだけどな……」
必死に絞め技から抜け出そうとしながら、僕は混乱していた。一体どうして、急に締め上げられなければならないのだろうか。
身を捩って、しばらくもがけば、どうにか口元だけでも自由になった。ふた呼吸ほど挟んで、息を整えてから、抗議の声を上げる。
「ちょっ、先生、勝手に何言ってるんすか! というか、何で急に――」
ぐい、と襟を引っ張られる。そして、メイに聞こえないくらいの声で、先生は囁くのだった。
「――理由は、後で話してやる。だから、今は俺の言う通りにしな」
もう、わけがわからない。
先生の言っていることも、メイのお願いも、何もかもが滅茶苦茶だった。
しかし、大人しくそれに従うことにしたのは――先生の声が、今までに聞いたことのないくらい、シリアスなものだったからだ。