16話「病院へ」
「なるほどな、それでお前さんのところに、連絡が来たわけか」
車を走らせながら、明樂先生はそう口にする。
"サイクルショップ・アキレア"のバンは、乗り込んでみれば、濃い煙草の匂いがした。加えて、それを芳香剤で誤魔化そうとしているからか、目の裏が撓むような頭痛すら覚えそうになる。
車中のスピーカーは改造されているのか、ズンズンと重低音を響かせながら、某とかいう海外のロックバンドの名曲を垂れ流し続けている。しかし、僕には微塵も理解ができなかった。
「あいつん家の親父さん、仕事中は連絡がつきづらくてよ。中学の時も、確か緊急連絡先にはお前の両親の電話番号も書いてあったはずだぜ」
「……仕事中は連絡が、って。何の仕事してるんすか、あいつの父ちゃん」
そういえば、彼女とは長い付き合いになるが、親と会ったことは数度しかない。
知っていることといえば、幼い頃に母親を亡くしており、男手一つで育てられたということくらいか。それもあって、小学生の頃はよく、うちにも食事に来ていたことを覚えている。
「なんだ、お前、知らねえのか? 市役所の職員だよ。厳格で、融通が利かねえって有名なんだぜ」
「へえ……そうなんすね、あいつ、家族のことなんて全然話さなかったんで」
「ま、そりゃそうだろうな。ガキ同士の付き合いに、親が顔出すのなんて、無粋だろうし」
「ガキ同士って……先生、教師辞めてからさらに、ガラ悪くなりました?」
ガハハ、と豪快に笑う先生は、知らなければ元教師とは思えないだろう。ガテン系の職に就いている人か、そうでなければ、いいところがタチの悪いごろつきだ。
それでも、僕は知っている。この人が、信用に足る人間であるということを。
そこまで話したところで、明樂先生は顔を引き締める。真剣な話をする前に大きく息を吸う癖は、二年前と変わっていない。
「まあ、与太話はともかくよ。久木んとこは、ちっとばかし、家庭が複雑なんだわ。事情がある、ってやつだ」
「事情、ですか……」
僕は、普段の彼女の様子を思い浮かべる。後先考えず、直情的で、猪突猛進で。そして何より、底抜けに明るい。
家庭の事情、なんてものとは無縁だと思っていたが、人は見かけによらないものだ。
――あるいは、僕が彼女のことを、何も知らないだけなのかもしれないが。
「ああ、お前は久木と仲もよかったし、その辺はある程度、聞いてると思ってたんだがな」
「何も知りませんよ、僕みたいな奴には、いつだって、一番大切なことは知らされないもんですから」
「……拗ねんなよ、もしかして、高校行かなくなったのも、そういうのが原因じゃないだろうな」
僕はそこで、顔を逸らした。肘関節の筋を押された時の痛みに近い、都合の悪さがそうさせたのだ。
「……別に、そういうんじゃないですよ。ちょっと、上手くいかなかっただけで」
「どうだかな、お前にゃ前から、潔癖な所があるからよ。もしかすると――」
「先生」語調を強めて、遮りつつ。
「関係ない話は置いときましょう、というか、さっきから音楽がでかすぎて、全然話が頭に入ってこないんすよ」
「は? お前、このオーディオの良さがわからねえとはな……」
それ以上、痛いところに触れられることはなく、僕たちは病院に辿り着く。
市の予算を大々的に注ぎ込んで作った、街で唯一の総合病院。階数にして八階にもなるこの建物は、もしかすると、周りで一番高い建物になるのかもしれない。
駐車場から入り口までは少し距離が離れていて、その僅かな間を歩くだけでも、全身から汗が噴き出した。今日も今日とて変わらぬ猛暑。
もしかして、メイも熱中症か何かではないだろうかと、そんな想像をしながら、僕らはエントランスに歩を進める。
平日の朝だというのに、待合室にはそこそこの人数が掛けていた。そういえば、連絡をくれたメイの学校の先生は、どんな人なのだろうか。電話口の声色から、男性であるということしかわからない。
「よう、アスタ。取り敢えず受付に行ってみようぜ。わかんねえ時は、聞くのが一番だ」
「……そうっすね」
待合のソファに座る人々を追い抜いて、受付のカウンターまで歩いていく。半袖のブラウスにベストを合わせた、女性のスタッフと目が合えば、その表情が少しだけ、怪訝そうに傾くのがわかった。
けれど、尻込みはしていられない。ここまで来たのだからと、一歩近付いて――。
「――あのう、もしかして、あなたが葉村さんですか?」
――不意に、横合いから声をかけられた。
見れば、そこに立っていたのは、中肉中背、恐らく年齢にして三十代も半ばほどであろう、ひょろっとした男性だった。くたびれたワイシャツにはしっとりと汗が滲んでいたが、ネクタイだけはカチッと締めているのが印象的だ。
「はい、そうですけど……あなたは?」
「ああ、申し遅れました、私は先ほど連絡させていただいた、久木さんの担任の――」
どうやら、目的の人物は見つかったようだ。
僕が適当に挨拶を交わせば、教師の目は背後に立つ明樂先生に向けられる。
「……失礼ですが、そちらは?」
「ああ、こちら、中学校の頃の担任だった、明樂先生です。今は、学校を辞めて自転車屋やってますけど……ここまで、送ってもらったんです」
明樂先生はどこか気まずそうに、そして手短に挨拶をして、それ以上は何も言わなかった。もしかすると、こういう付き合いは苦手な人なのかもしれない。
とにかく、そんなやりとりはどうでもいい。今、一番気になっているのは、メイがどうなったかということだ。単刀直入に、僕はそれを聞くことにした。
「それで、メイの容態は、どうなんですか?」
「今は、落ち着いていますよ。処置も終わって、点滴を打って……ついさっき、目も覚ましましたし」
「……目を覚ましたって、そんなに、しっかりと気を失っていたんですか?」
僕は少しだけ驚いた。熱中症か何かの認識でいたため、僅かに意識が混濁して、倒れてしまった程度だと思っていたからだ。
「ええ、まあ……搬送されるまでは、完全に意識不明でしたよ」
「……なんすか、それ。メイは一体、何の病気なんですか? 熱中症とか、そんなんじゃ――」
僕の知る限り、メイは健康体のはずだ。昔から、風邪すら引いたところを見たことがない。
その彼女が、突然倒れてしまうなんて。何があったのかと、訝るのも自然な気持ちだろう。
「ええ、そうですね。実は、久木さんなんですが――」
そんな僕に、目の前の彼は、予想外の一言を告げた。
「――過労、らしいんです」