15話「突然の報せ」
筆跡は……強いて言うのなら、少しだけ丸みを帯びているだろうか。ならば、書いたのは年頃の女子、と考えるのも、安直な気がする。
しかし、それ以外に情報は存在しない。まずは、これを書いたのが誰なのか。それを特定しないことには話が進まないため、僕たちは暗礁に乗り上げる――どころか、座礁したまま動けなくなっていたのだ。
「せめて、誰の願いかがわかれば、やりようもあるんだけどな。そこんとこ、カミサマの特権とかでどうにかならないのか?」
モモはふるふると首を振りながら。
「ならないね。というか、そこも含めての手伝いだし、そもそも、その特権とやらを取り戻すためにボクたちは動いてるんじゃなかったっけ?」
「……そういや、そうだったな」
ごろん、とベッドに寝転ぶ。現状、この絵馬についての手がかりは何も無い。何も無いのだから、何もしようがない。
先送り癖。取り敢えず、ここはもう一眠りしてから考えよう。どうせ、時間はいくらでもあるのだ。焦ったところで仕方がない――。
「ちょっと、また寝るの? もう、まだお天道様が高いのに、勿体ないよ」
「カミサマにゃわからないかもしれないけど、僕みたいな人間には、あんまり日が高いのも辛いもんなんだ。なんなら、カーテンも閉めといてくれよ」
「不敬! ナチュラルに不敬だよ、アスタ!」
バタバタと駆け回るモモを、咎めるのはもう止めた。ホコリが舞うから止めろと言っても、どうせ聞かないだろう。
そうして、タオルケットを深く被り、布団に顔を埋める。窓から漏れてくる陽光も、できる限り届かぬように、僕は、微睡みの中に落ちていって――。
「――ん?」
僕の耳が、階下から聞こえてくる微かな音を拾った。
「……アスタ、電話、鳴ってるみたいだけど」
モモがポツリと呟く。よく耳を澄ませてみれば、確かに、一階に設置された固定電話の呼び出し音が響いていた。
「……別に、母さん、いるだろ」
そう口にして、しばらく待ってみるが――家人が応答する様子はない。
仕方なしに、僕はベッドから起き上がった。そして、前方に体を倒した勢いのまま、ドタドタと部屋を出る。
そのまま、一階に向かってみるが――家の中には、人の気配がなかった。どうやら、両親も今は留守にしているようだ。
そういえば、今日は平日か。麻痺した曜日感覚に辟易しながらも、こうなれば、僕が電話を取るしかない。
「……っ」微かに、指先が躊躇する。
思えば、引きこもり生活を始めてから、家の電話を取るなんてのは、これが初めてである。
やはり、寝たフリをして、気が付かないことにすればよかったか……と、考える僕の足元を、夏毛の塊が歩き回りながら。
「……どうしたの? 早く出なよ」
「……うるさいな、わかってるって」
急かされるまま、半ば勢いで受話器を取る。「もしもし」の声は、引き攣っていたと思うが、それでも、どうやら聞き取ってもらうことはできたようだ。
『もしもし、おはようございます。そちら、葉村さんのお宅でよろしいでしょうか』
電話の主は、恐らく、三十代半ばほどの男性。その声に、聞き覚えはない。
「は、はい……そうですけど、どなたですか?」
『ああ、急に申し訳ございません。私、果段高校で教諭をしております――』
僕は首を捻った。
果段高校、というのはこの辺りにある、私立高校の名前だ。しかし、そこの教師から連絡が来るような覚えは、一つとしてない。
「ああ、そうですか。それで、ご用は一体……?」
単刀直入に、聞くことにした。電話対応に慣れていない僕は、こうしているだけでも、手のひらにじっとりと汗が滲んでいる。
酷く不快だ。とっとと終わらせて、部屋に戻りたい。なんなら、両親の不在を告げて、受話器を置いてしまおうかと、そう考えたところで――。
『――久木 蒾さんが、学校で倒れました』
――その言葉に、思わず、内臓が凍りつくような感覚があった。
久木 蒾。それは、メイのフルネームだ。苗字で呼ぶことなんてなかったから、かえって新鮮で――いや、今はそれどころではない。
「倒れた、って、どういうことですか? あいつに、何が……?」
深刻そうなトーンのまま、教師は続ける。
『はい、久木さんは、恐らく文化祭の朝練のために、音楽室を訪れておりまして……ホームルームに現れないのを不思議がった生徒が探しに行ったところ、倒れているのが発見されました』
今は、病院に搬送されています、と。
メイが、音楽室で? 僕の頭は混乱を極めていた。確かに、朝練に行くというのは、昨日一昨日も聞いた話だ。文化祭が近いというのも。
しかし、疑問は、まだ絶えない。
「そ、それで、なんでうちに、連絡を……?」
『はい、最初は久木さんのご家族にご連絡したのですが、連絡が取れなくて。その場合はこちら――葉村さんのお宅に連絡してほしいと伺っていたものですから』
そういうことか、と僕は納得した。
メイと僕は、有り体に言えば、幼馴染だ。家族ぐるみの付き合いってやつで、親は親同士で付き合いがある、というのを聞いたことがある。
ただ、僕がそれを意識することは、今までなかった。必要がなかったというのもあるし、友達の親なんてのは、近しくなったところで、気まずさの方が勝るものだからだ。
「なるほど、事情はわかりました。でも……」
僕は、家の中を見渡す。
恐らく、病院というのは町外れにある総合病院のことだろう。徒歩で向かうには、少し距離がある。
しかし、父親は仕事に行っている。母さんも、パートに出ている時間のはずだ。二人ともすぐに動けるとは思えない。
端的に言って――足がないのだ。
「すみません、実は今、両親が留守にしてて、すぐに行くことは――」
と、そこまでを口にしたところで、不意にインターホンが鳴る。
最悪のタイミングだ。こんな時に誰だよ、と、思わず悪態を吐きたくなったが、半ば反射的に、視線を向ける。
勿論、それで、扉の向こうの人物が誰なのかなんて、わかるわけもないのだが――。
「――おうい、アスタぁ、いるかぁ!」
不意に、玄関の向こうから威勢のいい声が響いてくる。
それは、僕のよく知るものだった。
「あ、ちょ、ちょっと待っててください!」
僕は電話機の保留ボタンを押すと、そのまま玄関に駆けていった。重い扉を勢いよく開けば、その向こうに立っていたのは、大柄な人影だった。
粒々の筋骨。短く刈り上げた髪と、よく焼けた肌が、どこか野性味を感じさせる。Tシャツは、もうワンサイズ上げてもいいのではないかというほどに、はち切れそうなのだが、前に指摘した時に不機嫌になったので、それ以上言うのを止めたのを覚えている。
「がっはっはっは! よう、アスタぁ。元気にしてるか?」
――明樂先生。
僕たちの、中学時代の先生だ。
前にも言ったかもしれないが、今は教師を辞めているはずなので、"先生"というのは正しくないのかもしれない。しかし、慣れというのは怖いもので、今でも、自然に口を衝いてしまう。
「せ、先生……!?」
「おう、だからよ、先生は止めろって。たまたま、遠方の親戚から果物をもらったもんでな、仕事のついでにお裾分けをと思って――」
何やら、小脇に箱のようなものを抱えていた明樂先生だったが、今はそれどころじゃなかった。
僕は、差し出そうとしてくる先生の手を、一旦無視して、語りかける。
「先生、ちょっと、大変なんすよ、学校で――」
――蝉の声が、遠く聞こえる。
僕を急かすように、生き急ぎの鳴き声が、どこまでも響き続けているのだった。