12話「思い出ひとつ」
"こすもす屋"の朝は早い。
一応、開店は九時ということになっているのだが、アキヨさんはその二時間以上前から軒先の掃き掃除を始め、三十分以上早く店を開けている。
そんな事情を、把握していたわけではなく、ただ、いつも通り人目を避けたらそうなってしまっただけなのだが――ともかく、僕が再びアキヨさんの元を訪れたのは、あれから一晩が明けた、ちょうどそのくらいの時間帯だった。
「……よう、アキヨさん、やってるか?」
背負った鞄を肩がけにして、恐る恐る、ガラス戸を開ければ、入って正面すぐのところに、彼女の姿が見えた。
前に見た時よりも、なんだか一回り近く小さくなったような気がする、アキヨさんを目にして、ズキリ、と僅かに胸が痛む。
そんな、僕の心境を知ってか知らずか、彼女はいつも通りの、柔和な笑みを浮かべる。
「あんれ、まあ。今日はまた、早いねえ。どうかしたのかい?」
「ああ、いや、ちょっとね。アキヨさんにまだ、少しだけ話さなきゃいけないってことで、今日は来たんだよ」
と、僕は少しだけ、背後に視線を投げた。
ガラス戸越しの向こう。店の中を覗き込むようにして、モモが立ち上がっているのが見える。
それに、小さく頷きを返した。分かっているさ、やらなければならない。他の誰でもない、僕が。
「お話って、なんだい。この間のことなら、もう……」
俯くアキヨさんの目元は、普段と変わらないように見えた。しかし、僕にはわかる。年月を重ね、磨かれてきた水晶玉のような輝きが、今はくすんでしまっている。
輝きを奪ったのは、僕だ。だから、彼女に本当のことを伝えるのも――僕じゃなきゃいけない。
「……その、ことなんだけどさ。あの後、僕らでもう一度、調べてみたんだ。その、結果――」
僕は、一度だけ目を瞑る。そして、痛みに耐えながら、その先を口にした。
「――やっぱり、"あの人"はもう、亡くなってたよ」
そこで、始めてアキヨさんの顔に、怒りの色が浮かんだ。普段からあまり感情を出さない彼女が、僅かに目尻を持ち上げ、口元を強張らせる。
しかし――それもすぐに、萎むようにして落胆に変わる。先ほどよりもさらに水気を失ったような、或いは、枯れかけた花のような。
「……そうかい。そんなことなら、もう――」
彼女は、精一杯という様子で、それだけを絞り出した。これ以上、傷付けないでくれと、そうとでも言いたげに。
だが、ここで止めるわけにはいかない。
「違う、違うんだよ、アキヨさん」
僕は、力強く続ける。この話は、ここで終わっていない。ただの悲恋ではない、ただの悲劇ではない。
さらに連なる――続きのお話がある。
「確かに、"あの人"はもう、亡くなってるけどさ――」
図書館で見た、とある記事を思い浮かべながら。
「――あの事故の後はまだ、生きてたんだよ」
アキヨさんの瞼が、ほんの少しだけ見開かれる。
それを確認して、肩がけにした鞄から、数枚の紙切れを取り出した。
どれも、昨晩、萌音さんとメイが協力して見つけてくれた、五十年前の新聞の切り抜きたちだ。それぞれ銘柄も、日にちも違うものが集められているが、内容はどれも同じものだ。
「あの事故に生存者がいるのなら、きっと、沖縄か九州の辺りに流れ着いているはずだ。それに、帰ってこなかったということは、それなりの理由も抱えている――そう、踏んだ僕たちは、とにかく過去の新聞を漁ることにした」
「過去の……って、大変だったでしょう?」
「ああ、朝方までかかっちまった。とにかく、調べる量が多くてさ――」
――あの後、無理を言って、閉館後も図書館を使わせてもらった僕らは、夜通し調べ物をしていた。
そのまま、メイは文化祭の朝練に行き、萌音さんは寝ずの作業でギブアップ。
結果として、僕はここに一人で来ることになった。
一人で、間違いを正す機会を与えられた。
「最初、さ。僕らはずっと、尋ね人の欄を確認してたんだ。それらしい行方不明者とかが出てないかって、総掛かりでな」
「……そこで、見つかったわけかい」
「まだ、"最初"って言ってるだろ? 結果として、それでは、お目当てのものを見つけることはできなかったんだ」
理由は、いくつかある。しかし、一番大きいところは、結局、僕らの一人も、"あの人"とやらの風体や年齢を知らないってことだ。
例え、該当しそうな情報――保護された、二、三十代くらいの男性なんかのことだけでも、1970年代だけで、数十件はあった。
そこから、特定の一人に絞り込むことが、どうしてもできなかった。かといって、候補になった人たちの記事を集めてくるだけでは、生存の根拠としては薄い。
「そこで、僕たちはあるキーワードに着目したんだ。アキヨさんと、その人を結びつけるもの。五十年前から変わらず、あなたたちの間にあるものに」
「五十年前から、変わらず……?」
首を傾げた彼女に、僕は続ける。
「――向日葵、だよ」
アキヨさんの直ぐ側にかけられた、向日葵畑の絵。
恐らく、逢瀬を重ねたあの場所をイメージして、ずっとここにあり続けたのであろう、その花が、僕たちが真相に辿り着くための、最後のピースだった。
「……向日葵って、一体、どういうことなんだい?」
尚も、疑問符が消えない彼女に、僕は次の資料を用意する。先ほどと同じく、新聞の切り抜きが数枚。
そして――一冊の、本。
「たぶんなんだけど、"あの人"は、事故で記憶を失くしてしまったんだ。だから、この町に帰ってくることが、できなかった」
アキヨさんの下に帰ってくることが、できなかった。
「……それでも、消えないものはあったんだ。何もかもを手放してしまっても、これだけは失くすことなく、抱き締め続けていた」
僕の出した資料に書かれていたのは――とあるローカル誌に載せられていた、読者投稿の詩だった。
一遍だけではない。最初のうちは、何ヶ月かを飛び飛びで。それはやがて、読者を獲得したのか、掲載ペースは毎日に変わり、やがては、誌面でもそれなりのスペースを占めるようになっていった。
「――日向花道。それが、この詩人の名前だ。彼は、七十歳の時に胃癌で命を落とすまで、生涯、向日葵をモチーフにした詩を書き続けた」
彼女の前に差し出した本は、詩集。僕が昨日、図書館を訪れた時に、萌音さんが読んでいたのが、まさにこれだった。
『夏になると私、この人の詩が読みたくなるんです、何だか、切なくって』
萌音さんは、そう評していたが――それも頷ける。だって、これは。
「……この人は、五十年間、絶えず想い続けていたんだ。一日も欠かさず、あなたへの想いを詩に変えて、贈り続けていた」
いつかそれが、遠く離れた、もう顔すらも思い出せない想い人に届くと、そう、信じて。
アキヨさんは、何も言わなかった。ただ、僕の差し出した詩集を手にとって、そのしわだらけの指で、表紙を捲る。
頁が進むたび、彼女の顔に赤みが差した。肌に、張りが戻ったような気がする。まるで、五十年の時を遡るかのように、無邪気な表情で、彼女はさらに次の頁に手をかける。
その目が、僅かに煌めき、潤み、重力に引かれるようにして、ぽたり。一雫、二雫と続いて、水分の飛んだ手を濡らした。
「……ああ」
アキヨさんはそうとだけ漏らして、詩集に釘付けになっていた。まるで、失われた時間を取り戻すかのように。
僕は、そこまでを見届けてから、"こすもす屋"を後にした。これ以上、逢瀬を邪魔するわけにはいかない。
何せ、半世紀ぶりだ――引き裂かれた二人は、望んでいた形ではなかったにせよ、ようやく、また会うことができたのだ。
店を出れば、相も変わらぬ炎天下。軒先の影に隠れたモモが、僕をじっと見上げてくる。
「……上手く、いったのかい?」
「ああ、たぶん、な」
そうとだけ口にして、僕は歩き出す。もしかすると、格好つけたことを言い過ぎた照れ隠しだったのかもしれない。
きっと、望んだ形の再会ではなかっただろう。抱き締めることも、言葉を交わすことも、何一つとして二人には許されなかった。
それでも、眩しさ一つ。確かに、鮮やかな思い出は残されていて。それを救いにすることくらいは、できたのではないだろうかと、僕はそう思う。
彼女の、恋物語の終わりが――単なる悲劇で終わらなかったのだと、そう、願う。