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泥を吸って、虹を吐く

作者: 網笠せい

 深緑のまるい葉がたくさん浮かんだ沼に朝がやってきます。日の光とともにポンと音がして、伸びた茎の先で蓮の花が開きだします。

 水面から顔を半分だけ出して花の咲く音を聞いたあと、(みずち)は沼の中へと泳いでいきました。

 蛟というのは幼い竜のことで、蛇のような姿をしています。長い尾をしならせながら泥の中を進むと、かたい鱗のすき間から小さなあぶくが溶け出していきました。

 蓮の台の上にはお釈迦様がいらっしゃって、汚泥に苦しむ生き物たちをそっとすくいあげ、清い水に放してくださるといいます。

 一方、蓮の台の下に広がる沼は、少しの先さえ見えない真っ暗な泥と力尽きた生き物たちの死骸であふれた、呼吸もままならない世界です。

 清い水の世界を想像できない蛟は、他の生き物たちがお釈迦様にすくわれる日を待ち望む気持ちがわかりませんでした。蛟は何度か棲家を変えて来ましたが、どこに行っても大差はありませんでしたし、清い水場もいつしか汚れてしまうことを知っています。なにより、自分をすくいあげるお釈迦様の白い手を、かたい鱗の間に染み込んだ泥が汚してしまうことがみじめで悲しく、おそろしいのでした。

 ですから蛟はお釈迦様のいらっしゃらない夜の時間に姿を現します。そうして蓮の花が目覚める音と同時に、沼の底へと帰っていくのでした。

 黒々とした汚泥を吸って白いつぼみを作る蓮の花を、蛟はいたく気に入っていました。けれども蓮も夜の間は眠っていますから、蛟の知る姿はつぼみだけです。

 あの花が咲いたらどんなだろうと思いをめぐらせますが、どれもこれも想像でしかありません。

 それでも蛟は蓮のつぼみが好きでしたし、鱗のように花びらが重なったつぼみをこわごわとなでて、そのやわらかさに驚き、微笑むのでした。

 ある夜、いつものように蛟が水面から顔を出すと、月が沼を照らしていました。水が波打っては消えていくのがよく見えます。蛟は大きな蓮の葉の上に乗って、口の中に残っていた沼の水をひゅっと吐き出しました。

 するとどうでしょう、汚泥にまみれていたはずの沼の水が小さな虹となって、蓮の池にかかりました。

 蛟は自分の身体から美しいものが生まれたことが不思議でたまらず、夢中になって次々と濁った水を口に含みます。汚れた水が虹に変わっていく風景は壮観です。まるでお釈迦様が連れて行ってくださる清い水場のようでした。

 そのとき、ポンと聞き慣れた音がしました。月の明るさに惑わされた蓮の花が一つ開いたのです。蛟はおどろいて白い花をのぞきこみました。やわらかな花びらが連なる蓮の花は蛟の想像よりも素朴でしたが、清廉で穏やかな香りがしました。

 蓮の花に目を細める蛟の耳に、甲高い錫杖と鈴の音が届きました。お釈迦様です。

 白い月光を背負ったお釈迦様が手を差し伸べると、蛟はおそるおそる鱗のついた手を乗せました。汚泥にまみれた沼に、そっと優しい後光が降り注ぎます。

 その後、蛟は水を司る竜になったということです。

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